九鬼守隆(くき・もりたか) 1573〜1632

九鬼嘉隆の嫡子。通称は孫次郎。別称を友隆・光隆。従五位下・長門守。
父と同様、九鬼水軍の惣領として活躍した。
慶長2年(1597)に志摩国鳥羽3万5千石を、隠居した父・嘉隆より相続した(うち5千石は嘉隆の隠居料)。
慶長4年(1599)、従五位下・長門守に叙位・任官。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては、会津上杉征伐に出征したときより徳川家康(東軍)に属していたが、嘉隆は領国に在って石田三成方(西軍)に通じたため、父子間で対立するに至った。嘉隆が本城である鳥羽城を奪ったことによって情勢は不利となるが、守隆は伊勢国桑名城の氏家行広を降して牽制した。
9月15日の関ヶ原の合戦直後には家康から2万5千石の加増を約されたが、その功と引き換えに父・嘉隆の助命を嘆願し、これが認められたが、嘉隆は西軍敗北の報を受けて鳥羽城から落ちのび、潜伏先で既に自刃していた。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣には、熊野水軍を率いて大坂湾を制圧、その功で千石を加増された。
寛永9年(1632)9月15日に没した。60歳。法号は心月善光松嶽院。
なおその後、三男の隆季と五男の久隆の間に家督争いが生じ、幕府の裁決で隆季は丹波国綾部2万石、久隆は摂津国三田3万6千石へ各々転封。以後、水軍九鬼は陸へ上がった。