関ヶ原(せきがはら)の合戦

会津上杉征伐へと向かう道中で石田三成(西軍)挙兵の報を聞いて軍勢を転じ、徳川家康が江戸を出発したのは9月1日のことである。7日には伊勢にいた西軍の毛利・吉川らの軍勢も美濃に入り、南宮山の東麓に布陣した。家康が関ヶ原に到着したのは9月14日であった。その日の正午頃に赤坂に進み、岡山という小高い山の頂上を陣所にした。ここが東軍の本営となったのである。その本営で諸将を集めた軍議が行われ、「佐和山城を抜き、一気に大坂城を攻める」という形でまとめられ、その決定は故意に西軍にも流された。
つまり家康は、はじめから大垣城や佐和山城、さらに大坂城といった城攻めをする意思はなかったが、西軍方が籠城するということになればそれを攻めなければならなくなるので、謀略上の作戦計画を流したというわけである。
多数の将兵を糾合することに成功した西軍が複数の城に籠もった場合、それと戦うには膨大な兵力と時間を要するからである。それに加えて戦況が長引けば、心変わりして西軍方に流れる武将が出てくる可能性もある。それよりは西軍を関ヶ原におびき出して、一気に決着をつけることのできる野戦に持ち込むためであった。
石田三成はその作戦を謀略であると看破できず、「東軍を関ヶ原でくいとめなければ」と考えた。そこでその日の午後に急遽、大軍を関ヶ原に移動させることになったのである。

そして15日、本戦の当日であるが、午前1時頃、西軍の主力はほとんど関ヶ原の西北方にあたる小関村に陣取り、北国街道と中山道を扼する形となった。その間、三成は松尾山麓まで出かけ、小早川秀秋の老臣・平岡頼勝と会い、「烽火を合図に東軍の側背を衝くように」との命令を伝えている。
家康は岡山の本営で寝ていたが午前2時頃、福島正則および西尾光教の使者が、西軍の動きを伝えてきた。午前3時頃、家康は軍勢の移動を命じ、食事を取ってからその最後尾について関ヶ原への移動をはじめた。
西軍が布陣を完了したのが午前4時頃、東軍は午前6時頃であったという。夜中の行軍ということもあり、また、東軍も西軍もどちらも地理に不案内だったので、暗闇の中で東軍の福島正則隊の前衛が西軍の宇喜多秀家隊最後尾の小荷駄隊と接触するという場面もあった。それだけ両軍は接近していたのである。
ところで、このとき関ヶ原に対峙した軍勢の総数であるが、東軍が7万4千、西軍が8万4千であり、兵数から見れば西軍が優勢であった。ところが西軍の中にはのちに内応者が出たり、寝返らずとも全く動かないものもあり、実質的には東軍10万4千(あるいは9万3千)、西軍が3万5千という大勢になってしまったのである。

合わせて15万ほどの大軍が、霧の晴れるのを今や遅しと待っていた。午前8時頃、福島正則隊の横をすり抜けて、東軍の第一線に出た井伊直政・松平忠吉が、西軍の宇喜多秀家隊めがけて鉄砲を撃ちはじめた。これが開戦の合図となり、両軍入り乱れての戦いが始まったのである。
福島隊は宇喜多隊と渡り合い、石田隊には黒田長政細川忠興加藤嘉明らがあたった。石田隊の先陣が島清興で、その勢いに押されて黒田隊などは相当な犠牲を出している。黒田長政は、正面衝突では勝ち目がないとみて、退いたと見せて側面からの攻撃を仕掛けた。その作戦が図に当たり、島清興は負傷してしまった。西軍にとって、開戦直後の島清興の負傷はまったくの誤算であり、そうこうしているうちに石田隊の第一陣が崩れた。それが午前9時頃である。しかし三成自身が陣頭に立って指揮を執ったため、大きく崩れることはなかった。
午前10時を過ぎても、文字通りの白兵戦が繰り広げられ、一進一退の攻防が続いていた。それまで桃配山にいた家康は戦いの帰趨が気が気でなく、関ヶ原宿の東の辺り、のち「陣場野」という地名がつけられた辺りまで出てきた。
午前11時頃、石田隊が危なくなってきた。黒田・細川隊などの猛攻撃を受け、柵の中に閉じ込められる形になってしまったのである。三成は家臣の八十島助左衛門を島津義弘のもとに遣わして援軍を求めさせたが、助左衛門が馬乗のままで三成の指令を伝えたということで追い返されてきた。精強を誇る島津隊も、自分の持ち場を戦うだけで精一杯だったのである。正則そこで三成は、烽火をあげさせた。烽火を合図に松尾山の小早川秀秋率いる1万5千が東軍の側背に攻撃を仕掛けることになっていたからである。
ところが、烽火をあげたにもかかわらず、秀秋は何の行動も起こさなかった。というのは、秀秋には家康からも誘いがあり、その去就に最後の最後まで迷っていたからである。

戦闘開始後、すでに4時間が経とうとしていた。正午を少しまわったころ、家康方から松尾山に鉄砲が撃ちかけられた。去就を決しかねている秀秋に、最後の決断を促す鉄砲であった。やがて小早川隊はまっすぐに松尾山を駆け下り、麓の大谷吉継隊に挑みかかった。
小早川秀秋の裏切りである。しかも、それまで大谷隊に属していた脇坂安治朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の4つの隊までもが連鎖的に寝返り、大谷隊の側面を攻撃したのである。これによって大谷隊が崩れ、さらには小西行長隊が崩れ、午後1時頃には西軍の総敗北となったのである。
ただ、島津隊だけは敗走せずに留まっていた。島津隊は東軍の意表をつき、捨て身の敵中突破を敢行して血路を斬り開き、戦場を離脱していったのである(関ヶ原撤退戦)。
南宮山の東麓にいた長束正家隊、長宗我部盛親隊などもそれぞれ伊勢を目指して落ちていった。
午後3時頃までには西軍の諸隊は関ヶ原から姿を消していた。家康は天満山の西南、藤古川の台地に本営を移し、そこで諸将を引見した。