朽木元綱(くつき・もとつな) 1549〜1632

近江国高島郡朽木城主。朽木晴綱の子。母は飛鳥井雅綱の女。通称は弥五郎。信濃守・従五位下・河内守。牧斎と号す。
もとは足利氏の奉公衆だったが、足利義昭の上洛を支援する織田信長に従った。
永禄11年(1568)、三好一党が京都本圀寺に足利義昭を攻めたときにいち早く駆けつけ、織田信長が岐阜から救援に到着するまで防戦した。
元亀元年(1570)、信長が越前国に侵攻した際に浅井軍に背後を衝かれて(朝倉征伐(金ヶ崎の退き口))京都へと退く途中、元綱はこれを迎えて案内役をつとめた。
信長の死後は羽柴秀吉に従い、伊勢国安濃郡、近江国高島郡の蔵入地代官となった。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦には、はじめ西軍に属していたが、小早川秀秋が寝返ると自らも寝返って大谷吉継の陣を攻めて壊滅させ、戦後に高島郡朽木と山城国愛宕郡久多で9千6百石の所領を安堵された。
大坂の陣のおりも軍功を立て、元和2年(1616)に剃髪して牧斎と号し、隠居料として3千石を与えられた。
寛永9年(1632)8月29日、朽木で死去。84歳。