永禄11年(1568)に足利義昭を室町幕府第15代の将軍位に就けた織田信長は、義昭の権威と自身の軍事力によって畿内を平定し、天下に号令を発しはじめた。その当初は両者の関係は順調であったが、義昭は信長の傀儡でしかないことに気付き、しだいに信長の専横ぶりを憎むようになっていく。
義昭は信長に対抗できそうな勢力と密かに連絡を取りつつ、信長の追放を画策していた。その中には越前国の朝倉義景も含まれている。この頃すでに、織田氏と朝倉氏の関係は緊張感が漂うものとなっていた。義景もまた、信長に圧迫されるひとりだったのである。
永禄13年(=元亀元年:1570)1月、信長は畿内や近国の諸大名らに対して、上洛して皇居の修理や幕府の御用などを勧める書状を発した。この意図は諸大名をふるいにかけることにあったと見られている。つまり、禁裏や幕府の権威を背にした上洛命令に従わない者は、自分に敵対する勢力として選別するためであった。
この上洛の呼びかけに応じた者は飛騨国の姉小路自綱、伊勢国の北畠具房、三河国の徳川家康、河内国の畠山高政・三好義継、大和国の松永久秀、丹後国の一色義道など多数で、遠方の太田垣(但馬国)・宇喜多(備前国)・大友(豊後国)らは使者を遣わした。しかし、朝倉義景からは何の音沙汰もなかったのである。
4月20日、信長は突然に3万の軍勢を率いて京都を出発した。信長の軍勢の他に幕臣や公家も同行させていることから、官軍の司令官としての出陣である。その名目は、幕命に背いた若狭国の武藤友益を討つということであったが、真の狙いが朝倉攻めにあったことはいうまでもない。
信長は近江路より若狭国に入り、元号が永禄から元亀へと替わった直後の4月23日には朝倉氏と敵対する若狭国武田氏の重臣・粟屋勝久の拠る国吉城に入城した。信長はここを拠点として25日には若狭・越前国境の関峠を越えて越前国敦賀郡に入り、敦賀の妙顕寺を本陣として朝倉方の手筒山城と金ヶ崎城の2つの支城を攻めはじめたのである。
不意の攻撃であり、朝倉方にはまだ防備体勢が整っていなかったため、織田勢は快進撃を続けた。その日のうちに手筒山城を落とし、翌日には手筒山城の北西にある金ヶ崎城を降伏開城させるなど、敦賀郡全域を占領した。27日には木芽峠を越えて朝倉氏の本拠・一乗谷に迫る勢いだったが、そこへ妹婿の浅井長政が叛旗を翻したという知らせが信長のもとに届けられた。
長政は近江国北域を領しており、その長政が挙兵したということは、越前国の奥深くまで侵入していた織田方3万の大軍は退路を断たれ、挟撃を受けることに他ならない。信長は急ぎ兵をまとめ、若狭街道を経て京都へと撤兵することを決めた。信長の妹・お市が両端をきつく縛った小豆入りの袋を信長のもとへと送り、「袋のネズミ」ということを暗に仄めかしたという逸話はこのときのことである。
朝倉攻めを断念した信長は28日の夜より撤退を開始したが、このときに殿軍(最後尾にあって追撃を食止める役)として金ヶ崎城に羽柴秀吉・明智光秀・幕臣の池田勝正を残した。この殿軍は朝倉勢の追撃を受けて1千3百以上の兵士が討ち取られたといわれている。
信長はわずかの馬廻衆を従えてひたすら京を目指したが、懸念されたのが途中の朽木谷の領主・朽木元綱の出方であった。身分としては幕府奉公衆であるが、実質的には浅井氏より知行を受け、属す形となっている。が、元綱は信長を歓待し、無事に通した。松永久秀の説得があってのこととも伝わる。
信長がなんとか京都にたどり着いたのは30日の夜中になってのことだった。