朝倉義景(あさくら・よしかげ) 1533〜1573

越前国一乗谷の大名・朝倉孝景(宗淳)の嫡男。天文2年(1533)9月24日に生まれた。幼名は長夜叉丸、元服して孫次郎延景と称す。天文21年(1552)6月には将軍・足利義藤(足利義輝)の諱を受けて義景と改め、左衛門督に任じられた。これは、朝倉氏累代のなかでも破格ともいえる官途である。
天文17年(1548)2月、16歳のときに父の死により家督を継いだ。しかし軍事や政務よりも文弱に流れ、とくに軍政は同族の朝倉宗滴に任せきりだったという。
朝倉氏は長らく加賀国の一向一揆と対立してきたが、越後国の上杉謙信と親交を結んで天文24年(=弘治元年:1555)に加賀国の一揆勢を掃討し、加賀半国を制圧した。翌弘治2年(1556)4月、足利義輝の尽力により越前(朝倉氏)と加賀(一向一揆)の講和が成立。しかし永禄7年(1564)9月にこの和平を破って加賀国侵攻を企て、朝倉勢が一方的な勝利を得た。
永禄8年(1565)5月に足利義輝が暗殺され、その弟の覚慶(のちの足利義昭)が逃れてくると所領の越前国敦賀に、ついで居地の一乗谷に迎え、同地の朝倉館で元服させた。
義昭は朝倉氏と、一向一揆の背後にある本願寺との和約を固めることで朝倉氏の不安をなくすなどしたうえで、自分を奉じて上洛し将軍位に就けるように(軍事後援を)求めたが、義景はこれを了承しなかった。ために義昭は越前を去る。
のちに義昭を奉じて上洛した織田信長が、義昭の名による御教書によって諸国の有力武将を上洛させようとしたが、義景はこれに応じなかったために信長と不和になった。
元亀元年(1570)4月、突如侵攻してきた信長勢によって越前国手筒山城・金ヶ崎城を陥されたが、近江国の浅井長政が信長に対して兵を挙げたたために織田勢は退却し、窮地を免れた(朝倉征伐(金ヶ崎の退き口))。このとき義景は信長を追撃して美濃国に攻め入ろうとしたが、時機を失って成功しなかった。
続く6月末の姉川の合戦では織田・徳川連合軍に大敗を喫する。しかしこののちの9月に石山本願寺が挙兵(石山合戦の始まり)。これに勢を得た朝倉勢は比叡山衆徒の後援を受けて京都に迫り、11月には近江国堅田口にて浅井勢と共に信長勢と戦って勝つ(志賀の陣)など戦況を優位に展開したが、12月に至って義昭の調停で信長と和した。
その後も浅井長政・石山本願寺・武田信玄・足利義昭らとの連携によって形成された信長包囲網によって相対するが、信長は元亀2年(1571)9月に比叡山焼き討ちを決行したことにより、包囲網の一角が崩れる。
元亀3年(1572)7月に信長が北近江に侵攻した際に義景は1万5千の兵を率いて浅井氏救援に赴いたが、着陣後間もなく前波吉継富田長繁ら有力武将が織田勢に出奔。この後は大規模な合戦も行われずににらみ合いが続けられていたが、10月になると武田信玄が西へ向けて軍勢を動かしたことを受けて織田勢が北近江から撤兵を開始した。これはまさに東西から織田勢を挟撃する好機であったが、義景は追撃するわけでもなく、織田勢の撤兵後に軍勢の大半を領国に引きあげさせている。
明けて元亀4年(=天正元年:1573)4月の信玄病没と、7月に義昭が全面降伏したことにより包囲網の突破口を開いた信長は、再度の北近江侵攻を開始。義景は浅井氏からの要請を受け、救援のために兵を率いて7月17日に一乗谷から進発した。敦賀安養寺でしばらく滞陣したのちの8月6日に北近江に着陣したが、この間にも浅井氏の家臣が次々と信長に降っており、浅井・朝倉連合軍の劣勢は明らかであった。
信長の鋭鋒は士気の上がらぬ朝倉氏に向けられ、10日からの攻撃で朝倉勢の拠点である大嶽山城と丁野山城が陥落すると、自滅を喫して敗走した。
義景はわずか数騎を従えただけで15日に一乗谷に帰着し、ここで自害しようとしたが、一族衆筆頭・朝倉景鏡の勧めによって一乗谷を捨てて大野郡へ逃れた。しかし頼みとしていた平泉寺の宗徒が信長に応じて挙兵。さらには朝倉景鏡にも裏切られて軍勢を差し向けられたために最期と悟り、大野六坊賢松寺で8月20日に自刃した(朝倉征伐(刀禰坂の合戦〜一乗谷の戦い))。41歳。法名は松雲院大球宗光大居士。
義景は学問や芸能に関心が深く、儒学や兵法を学び、茶の湯や絵画をも嗜み、和歌・連歌もよくした。しかし優柔不断で神経質であったといい、そのために戦機を見失い、多くの家臣の離反を招いたという。