朝倉(あさくら)征伐:その2(刀禰坂(とねざか)の合戦〜一乗谷(いちじょうだに)の戦い)

元亀元年(1570)の姉川の合戦で朝倉・浅井連合軍を破った織田信長。その勢いを駆って浅井氏の本拠・近江国小谷城まで攻め込む好機であったが、信長の出陣中に摂津国で三好三人衆が(野田・福島の合戦)、南近江の甲賀で六角義賢が挙兵したために小谷攻めは断念した。信長は軍勢を率いてこれらの対処に追われるが、かねてより信長と不仲であった石山本願寺も信長に敵対することを表明(石山合戦)。その隙を衝いて9月に朝倉・浅井連合軍が京を目指して出陣したのである。この急報を得た信長は、摂津国より軍勢を返して近江国坂本に布陣。対する朝倉・浅井連合軍は比叡山に立て籠もった。
この両軍の対峙は12月まで及び、その最中の11月末には志賀の陣(堅田の合戦)という戦闘もあったが、将軍・足利義昭が勅旨を奉じて講和を斡旋したことにより、両軍とも兵を退いたのである。なんとか窮地を脱した信長は、元亀3年(1572)に北近江に出兵し、浅井氏の本拠・小谷を窺う。
浅井長政より援兵の要請を受けた朝倉義景は1万の軍勢を率いて救援に向かうが、このときは合戦に及ぶことなく両陣営とも兵を収めた。その後信長は比叡山焼き討ち、叛旗を翻した松永久秀や足利義昭を鎮定するなど、信長包囲網を破るべく、各個撃破策に出ていた。

天正元年(1573)8月、浅井長政の臣で山本山城主・阿閉貞征を寝返らせることに成功した信長は、すぐに兵を出して近江国大嶽の北の山田山に布陣し、越前国と大嶽、小谷城の連絡路を遮断した。これが8月10日のことである。大嶽の山頂には砦があり、小谷城の背後を守る重要な拠点であったが、織田勢の布陣した山田山は大嶽よりも高く、展望が利く場所だったという。
この織田勢の動きを知った朝倉義景もまた、小谷城救援のために2万の大軍(この数については異説もある)を率いて敦賀を発し、余呉・木ノ本・田部山に着陣した。
これと前後して、浅井方では寝返りが続出していた。先の山本山城に続いて月ヶ瀬城、焼尾城がなどがそうである。月ヶ瀬は織田方の前線拠点である横山城や虎御前砦からの兵站を繋ぐために重要な位置だったし、焼尾は大嶽の麓であり、どちらも浅井方の防衛力を削ぐ意味で、効果の大きいものだった。
8月12日の夜は大雨だったというが、信長はこの風雨を衝いて大嶽砦を陥落させた。浅井方の防衛拠点をまたひとつ削いだのである。13日には丁野山城をも陥落させた。これで後詰の朝倉勢の小谷近辺における拠点は完全に失われたのである。
信長は、朝倉勢の撤退を誘うために、城兵をわざと逃がすなどしてこれらのことが朝倉勢に知れるように画策した。撤退する朝倉勢に追撃をかけて大打撃を与えることが狙いである。そのために信長は、山田山に配していた佐久間信盛柴田勝家丹羽長秀羽柴秀吉らに、朝倉勢の動向を注視し、撤退を開始したなら即座に追撃することを命じていた。信長自身は、この両勢の動きが見える高月の本陣で待機する。
その夜、信長の読みどおりに朝倉勢は撤退を開始した。しかし山田山の軍勢は動かなかった。
これに苛立った信長は馬廻衆を率いて自ら追撃を開始、それに気付いた山田山の軍勢もようやく動き出したのである。
織田勢の猛追に朝倉勢は敗走し、越前・近江の国境付近で二手に分かれた。一方は椿坂・中河内経由で越前へ抜ける右の道と、もう一方は愛発関(あちらのせき)から刀根方面へと向かう左の道である。織田勢はどちらを追うべきか迷ったが、信長の「左には疋壇城・敦賀城がある。主だったものは味方の城を目指して逃げたはずだ」と下知した。
この信長の読みは当たっていた。右の道へ逃げた者は雑兵ばかりで、義景はじめ名のある武将たちは左の道へと逃げていたのである。
織田勢は刀禰坂の辺りで朝倉勢の主力に追いつき、ここで激しい戦いが繰り広げられた。朝倉勢はただ逃れようとするのみ、織田勢の一方的な攻勢だった。この追撃戦で朝倉景氏・朝倉景冬などの一族衆や山崎吉家・鳥居景近ら有力武将を数多く討ち取り、討ち取った総数は2千余という。
織田勢はその勢いで敦賀城をもたちまちのうちに落とし、16日まではここに逗留した。そして8月17日、木芽峠を越えて朝倉氏の本拠である一乗谷に攻め入ったのである。義景は平泉寺宗徒に救援を求めたが、拒否されるどころか逆に織田方に味方され、一乗谷に焼き討ちをかけられている。
こうなってしまっては一乗谷をも支えることができず、一族筆頭の朝倉景鏡を頼り、大野郡の六坊賢松寺に入った。しかしその景鏡にも裏切られ、賢松寺で自刃した。
ここに越前守護として5代に亘って続いた朝倉氏は滅びたのである。