比叡山(ひえいざん)焼き討ち

『天下布武』を掲げ、徐々にその版図を広げる織田信長であったが、その障害となったのは他の武家勢力だけではなく、寺社勢力も含まれていた。
当時の寺社勢力は、農民層をはじめとして多数の信者を抱えるだけでなく有力大名と結び、さらには僧兵集団を形成し、各地で勃発する一揆の後ろ楯となって武器の供給や軍事指揮者の派遣を行うなど、自衛力を超えた軍事力が組織的に展開されていたのである。
比叡山延暦寺もそのひとつである。比叡山は仏教信仰の「聖地」とされていたが堂塔も坊舎も荒れ果て、修行もせずに肉を喰らい、女を抱くなどその山門僧侶の腐敗堕落ぶりは明らかであった。それでも比叡山そのものは多くの人々にとっては神聖不可侵の地として崇められていたのである。
それと同時に山全体が要害でもあり、8百年来の俗権不可侵の特権を持つ数百の坊舎は、宗徒が籠もれば数万の軍勢の寄宿に耐える力を持っていたといわれる。

元亀元年(1570)6月の近江国姉川の合戦において、徳川家康の協力を得て朝倉義景浅井長政連合軍を破った織田信長であるが、その出陣中に摂津国で三好三人衆が挙兵したとの急報を受けて、軍勢を率いて畿内へと向かった。そして三好勢の拠点である摂津国野田・福島の両砦を包囲するに至る(野田・福島の合戦)が、石山本願寺が織田勢に宣戦を布告、戦線は膠着した(石山合戦)。
9月になるとその隙をついて朝倉・浅井連合軍が京に向けて進攻を開始。信長はやむなく、これを迎撃するために摂津国の陣を引き払って近江国坂本に布陣した。
対する連合軍は比叡山山頂に布陣し、隙を見て山を下っては京都近郊の集落に放火を繰り返した。そこで信長は山門宗徒に対して、味方になればこれまで召し上げた山門領を返還するし、味方しないのであれば宗教者として中立的立場を取るように、と交渉の姿勢を見せたが、宗徒側はこれに応じようとせず、つまりは朝倉・浅井方に味方するということで、交渉は決裂となった。
9月25日より信長は比叡山の麓を包囲して朝倉・浅井連合軍を「干し殺し」にする目算であったが、山門宗徒の援助を受けて連合軍は依然として健在だったのである。
11月末の志賀の陣(堅田の合戦)での敗戦、伊勢国長島の一向一揆蜂起による小木江城の落城など、信長を取り巻く状況は悪化していく一方だった。窮した信長は12月13日になって、将軍と天皇に働きかけて勅命を得て、朝倉・浅井氏と講和を結ぶ。連合軍側にとっても、これ以上滞陣が長引くと兵糧の欠乏や積雪が帰国の妨げとなる憂慮があったため、双方に利があっての和睦と見られる。これによって朝倉・浅井連合、織田勢ともに兵を退いた。

その後帰国した信長は、年が明けて元亀2年(1571)正月、岐阜城に年賀に訪れた細川藤孝に対し、「今年こそ必ず山門を滅ぼすつもりである」とその決意を語ったという。
比叡山征伐の準備はすぐに始められた。まず正月の2日に近江国横山城を守る羽柴秀吉に命じて、姉川から朝妻に至る交通を海陸ともに遮断させた。北陸と畿内を結ぶ交通を分断することで、比叡山と朝倉・浅井勢力が再度結びつくことを防ぐという意図である。ついで2月には近江国佐和山城に重臣の丹羽長秀を置き止め、信長の本拠である岐阜から湖岸への道を確保した。
5月、信長は伊勢国の一向一揆を相手に苦戦を強いられる(伊勢長島一向一揆:その2)が、同じ頃に近江国北部の一向一揆と結んで姉川まで出陣してきた浅井勢を羽柴秀吉が敗走させた(箕浦の合戦)ことによって、戦況がやや明るくなった。
8月18日、信長は岐阜を出陣して近江国北部に向かった。まずは横山城にしばらく滞在し、26日には横山城を出て中島に着陣し、その翌日には越前国との境に近い余呉・木ノ本近辺を放火して横山城に戻った。
28日、今度は一転して南方へと軍勢を進め、佐和山城に入った。9月1日、信長は南近江に配していた佐久間信盛柴田勝家・中川重政・丹羽長秀らに命じて、浅井氏に通じていた新村(志村?)城・小川城を陥落させたのち、江南の一向一揆の拠点である金ヶ森城を開城させ、瀬田に入った。そして三井寺で短く休息したのちの9月12日早暁、突然に海陸から坂本へと迫ったのである。

この信長の動きに、山門側は完全に虚を衝かれた。織田勢は坂本の街を荒らしまわり、日吉山王二十一社や、比叡山の象徴として諸人を畏怖させた神輿にも火がかけられた。炎や兵に追われた人々は、ひたすら山頂を目指して逃げていった。
織田勢は素早く比叡山の全ての出口を封鎖した。3万の軍勢で山麓を囲み、退路を完全に遮断したのである。佐久間信盛や武井夕庵ら臣下の諫止は一切受け付けず、黄金を贈って信長の怒りをなだめようとした山門の申し出も一蹴、信長は宗徒を根絶やしにする姿勢は決して崩さなかったのである。
合図とともに鬨の声をあげながら、織田勢は攻めかかった。見つけられた者は僧俗、老若男女構わず無差別に殺された。山頂においても徹底的な破壊と殺戮が行われ、根本中堂をはじめ、4、5百という堂塔坊舎の全てに火がかけられた。殺された者は3、4千人(諸書によって違いがある)にものぼり、比叡山は累々たる死体で埋め尽くされたという。
この放火と殺戮と奪略は15日までの4日間続けられた。奇跡的に焼失を免れた西塔北谷の小さな瑠璃堂のひとつを例外として、全ての堂宇が焼き払われたのである。創建以来の貴重な仏像や経典・什宝の類もことごとく略奪されるか、灰燼に帰したのである。
辛うじて琵琶湖へと逃れることができた者も、小船で待機していた軍兵によって皆殺しにされたという。しかし温情をかける者もあったようで、現在、高野山に保管されている国宝「二十五菩薩来迎図」は、このとき見逃された僧が持ち出したものと伝わる。
信長は、まだ放火が続いている13日の午前に小姓や馬廻だけを率いて入京している。将軍御所を訪れたのち、妙覚寺に入った。前代未聞の行為を実行中であるにも関わらず、なんら悪びれた態度もなく、いつもと変わらず公家たちと接していたという。