織田信長が2度目の長島侵攻に出たのは天正元年(1573)9月、朝倉氏・浅井氏を討滅したのちのことである。
9月6日に岐阜に凱旋し、24日には北伊勢へと向けて出陣している。信長が出陣を急いだのは、それまで信長と本願寺に両属していた北伊勢の国人領主や土豪たちが長島願証寺の扇動に応じて信長に背きはじめたからで、放っておけば北伊勢全体が敵勢力となってしまうことが懸念されたためといわれる。
このことから、今度の出陣は長島を討滅するというよりは、北伊勢の国人や土豪を完全に服属させ、一揆の勢力伸張を防ぐことが目的だった。それでも戦況しだいでは一揆勢の根拠地である長島を攻めることも念頭にあったと思われる。
信長は、長島を攻める際には陸・海の両面から攻める方策を考えていたようである。それに備えて伊勢国北畠氏の養子となっていた二男・信雄を通じて、伊勢大湊の船を徴発して桑名に集めようとしている。しかし大湊の自治を主導する会合衆はこの要求を渋り、なかなか返事をしなかった。これにしびれを切らした信長は、北畠氏を通じて催促する一方で岐阜を発向した。
信長はまず北伊勢を制圧するべく、侵攻に取り掛かった。美濃国の大垣を経由して、美濃南端の太田に着陣。ここで近江方面から合流した柴田勝家・佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに指示を与えて26日より侵攻作戦を開始する。長島に呼応していた西別所城や坂井城などを陥落させ、10月8には本陣を東別所へと移した。この侵攻において桑名郡から三重郡にかけての勢力はことごとく信長に降り、残すところは長島一帯となった。しかし大湊の船が充分に調達できなかったために長島攻めは断念し、抑えとして長島の西の矢田城に滝川一益を入れ置き、10月25日より撤兵にかかった。
撤兵の行路は、2年前の長島攻め(伊勢長島一向一揆)において柴田勝家が苦戦したところと同じものである。山と川に挟まれた1本の道を縦隊になって通る織田勢に向けて、一揆勢が攻撃を開始する。織田勢も鉄砲で応戦したが、昼から激しい風雨となったために鉄砲の使用ができず、槍・刀での白兵戦となった。殿軍を務めたのは林光時である。光時は「槍林」の異名を持つ勇士であったが一揆勢の猛攻を受け、奮戦の末に幾多の家臣と共に討死を遂げた。林隊の犠牲のもとに本隊は大垣城までたどり着くことができたが、またしても長島の一向一揆に敗れたのである。