蜂屋頼隆(はちや・よりたか) 1534〜1589

美濃国の武将。兵庫頭・出羽守・侍従。妻は丹羽長秀の妹。
はじめ美濃守護の土岐氏に仕え、のち下剋上で美濃国主に成り上がった斎藤氏に従ったが、永禄2年(1559)に上洛した尾張国の織田信長に随行していることからこれ以前に仕えるようになったとみられ、永禄年間(1558〜1570)中には黒母衣衆に編入されるという抜擢を受けた。
永禄11年(1568)9月の信長の上洛戦(箕作城の戦い)に従軍し、最後まで抵抗の姿勢を示した蒲生賢秀の拠る近江国日野城を攻め、ついで岩成友通の籠もる山城国勝龍寺城の攻撃にも加わった。
この後の永禄12年(1569)の伊勢国侵攻、元亀4年(=天正元年:1573)の足利義昭の乱の鎮圧、天正2年(1574)の伊勢長島一向一揆や天正3年(1575)8月の越前一向一揆鎮定などに従軍し、天正6年(1578)に別所長治が叛旗を翻すと織田信忠に属して出陣、天正7年(1579)11月には信長に叛いた荒木村重を攻めて荒木一族や家臣を尼崎で磔刑に処すなど、信長の股肱の臣として各地を転戦した。この間、近江国愛智郡肥田城主に任じられている。
天正10年(1582)には織田信孝に属して四国攻めに従軍することとなっていたが、渡海直前の6月に明智光秀が信長を討つと(本能寺の変)、光秀の娘婿で大坂留守居の津田信澄を討ち、ついで羽柴秀吉軍と合流して山崎の合戦に従軍した。
織田政権の瓦解後は秀吉に従属し、天正13年(1585)には越前国敦賀城主として4万石を与えられており、天正15年(1587)の九州征伐にも従軍。翌天正16年(1588)には侍従に叙せられ、羽柴の姓も与えられて羽柴敦賀侍従と称された。
天正17年(1589)9月25日に没す。享年56。子がなく、蜂屋氏は断絶となった。