津田信澄(つだ・のぶずみ) 1555?〜1582

織田信勝(信行)の子。幼名は御坊丸。通称は七兵衛・七兵衛尉。近江国大溝城主。生年を永禄元年(1558)とする説もある。
父・信勝が殺されたのち、柴田勝家に養育されたといわれている。
永禄7年(1564)に元服して津田姓を称したとされるが、天正2年(1574)付けの記録に幼名にてその名を記されていることから、それ以降に元服したとも見られる。
織田信長配下の武将として各地を転戦し、天正2年(異説あり)に明智光秀の娘を娶った。
元亀2年(1571)2月に織田氏に降って近江国高島郡の統治を任された磯野員昌の養子になったといい、この員昌が天正6年(1578)2月に出奔したのちにその地位を引き継ぎ、居城を大溝城に移した。
天正10年(1582)の本能寺の変の際、四国出兵を控えての準備のために摂津国の大坂にいたが、6月5日、光秀の縁者であったために織田信孝丹羽長秀に殺され、堺に晒された。
信澄の人物像としては「一段の逸物」であったというが、キリスト教の宣教師・フロイスは「信澄は異常なほど残酷で、暴君と見なされていた」と『日本史』に記している。