磯野員昌(いその・かずまさ) ?〜?

浅井家臣。通称は善兵衛。丹波守。近江国佐和山城主。
武略に長け、永禄4年(1561)2月に浅井長政が美濃国に侵攻した際には先鋒を務め、永禄6年(1563)頃より佐和山城主となる。元亀元年(1570)の姉川の合戦においても浅井勢の先鋒として出陣し、兵力に勝る織田信長勢の坂井政尚・池田恒興羽柴秀吉柴田勝家らの隊を破る活躍を見せているほか、永禄3年(1560)の野良田表の合戦にも出陣している。
姉川の合戦後に浅井氏の勢力が衰退したのちも佐和山城に在り、織田勢の丹羽長秀水野信元らの軍勢に抗して籠城を続けていが、兵糧が尽きたために元亀2年(1571)2月、開城降伏して高島郡を宛行われた。一説には、浅井氏の本拠である小谷城へ帰還を認めるという条件で開城したが、長政から反逆者と見なされて小谷に入城できなかったばかりか、捕えられた老母を磔刑に処されたため、信長に帰参する意思を固めたという。
天正元年(1573)9月、元亀元年に六角義賢から信長狙撃の依頼を受け、失敗して逃亡していた杉谷善住坊を捕え、安土に送った。また、天正3年(1575)8月には越前国の一向一揆鎮圧にも参陣している。
天正年間の初期頃に信長の甥・津田信澄を養子にしたとする説があり、実際にも高島郡の統治は天正4年(1576)頃から員昌から信澄へと移行している。
天正6年(1578)2月3日、信長の勘気を蒙ったために逐電した。のち、高野山に登って出家したとも、磯野氏発祥の地である伊香郡磯野村に蟄居し、天正18年(1590)9月10日、68歳で没したともいう。