野良田表(のらだおもて)の合戦

北近江を領する浅井氏は南近江の六角氏とは敵対関係にあったが、浅井氏の当主が久政の代には六角氏に抗しかねてその風下に属すようになり、嫡子の名前に六角義賢から「賢」の一字を与えられて賢政と名乗らせられ、さらにはその賢政が六角氏重臣・平井定武の娘を娶らされるという、屈辱的な服属関係を結ばされていたのである。
ところが永禄2年(1559)4月、賢政が六角氏に反発する家臣団からの支持を受け、娶ったばかりの妻を送り返し、六角氏に抗するという意思を鮮明にしたのである。
基盤の強化を図る賢政は、六角氏領国との境に位置する愛知郡肥田城主・高野瀬秀隆を寝返らせた。秀隆は、父・頼定が六角氏に従軍しての合戦で軍功を挙げて戦死したにも関わらず、所領が旧来のままだったことから義賢に不満を抱いていたのである。
この寝返りを怒った義賢は、永禄3年(1560)4月より肥田城の攻撃に取り掛かった。肥田城の周りに堤防を築き、愛知川と宇曽川から水を流れ込ませるという水攻めを行い、これによって城内は相当の被害を受けたが、大雨によって発生した洪水のために5月28日に堤防が決壊し、水が流れ出したために失敗に終わった。
水攻めに失敗した義賢は、今度は肥田城を力攻めにするために軍勢を率い、愛知川を挟んで肥田城に対峙する野良田郷に布陣。そこへ肥田城からの救援要請を受けた浅井勢が駆けつけ、8月中旬にこの両軍の間に合戦が展開されたのである。

六角勢は蒲生賢秀・永原重興・進藤賢盛・池田景雄を先陣に、楢崎壱岐守・田中治部大夫らを二陣に配し、さらには後陣をも備えて総勢2万5千余ともいわれる大軍を擁して布陣。対する浅井勢は百々内蔵助・磯野員昌・丁野若狭守を将とする先陣が5千、大将の賢政以下、赤尾美作守(清綱か)・今村氏直・安養寺氏秀・上坂刑部らの率いる後陣が6千ほどで、併せても六角勢の半分にも満たない1万1千の兵力だった。
合戦は浅井勢の百々隊と六角勢の蒲生隊の激突によって火ぶたが切って落とされた。
この先陣同士の戦いは4時間ほど互角に渡りあっていたが、六角勢二陣の楢崎・田中隊が横槍を入れた為に浅井勢の先陣は崩れだし、軍勢を踏みとどまらせようと奮戦していた百々内蔵助も討死した。
これに勢いは得た六角勢はさらに激しく攻め立てたので浅井勢の敗色が濃くなったが、賢政は軍勢を二手に分けて、大野木茂俊・安養寺氏秀・上坂刑部ら率いる一手をもって六角勢の先陣に当たらせ、もう一手の軍勢を賢政自ら率いて六角勢の本陣めがけて急襲するという策を用いたのである。
緒戦の勝利に油断していた六角勢はこの本陣への急襲を支えきれずに崩れ、大将の六角義賢が敗走。すると、それまで優勢であった他の六角方の軍勢もつられて敗走し、全軍が総崩れとなったことで浅井勢の大勝利で終わったのである。
この戦いにおける六角方の犠牲者は920人ほど、浅井方では4百余、手負いが3百余ということになっており、かなりの激戦だったことが窺われる。

この合戦は戦いのあった場所の名から「野良田(野羅田)表の合戦」や「肥田の合戦」などとも呼ばれ、両軍が宇曽川を挟んで対峙したことから「宇曽川の合戦」とも呼ばれている。
この勝利によって浅井氏は近江支配における政治的立場を確立し、北近江の戦国大名としての地歩を固めることができたのである。
こののちの10月頃、賢政は家臣団の支持を得て浅井氏の当主となり、翌永禄4年(1561)5月頃には六角義賢の偏諱を受けた賢政の名を棄て、浅井長政と改めている。