池田恒興(いけだ・つねおき) 1536〜1584

織田家臣。通称は勝三郎。美濃国大垣城主。紀伊守。入道してからは勝入と号した。
父は池田紀伊守恒利、母の養徳院は織田信長の乳母だった。はじめ乳兄弟の織田信長の父・織田信秀に仕え、星崎城攻めに功を挙げた。のち信長に従い、尾張国統一の初期から従軍して戦功を重ねた。
信長の名を知らしめた桶狭間の合戦、永禄12年(1569)の伊勢国大河内城攻めなどにも従軍し、元亀元年(1570)の姉川の合戦には徳川家康指揮下の軍勢に属して奮戦した。
天正6年(1578)に荒木村重が謀叛を起こしたとき、荒木一族の荒木志摩守を摂津国花隈城に攻め、鎮定後には村重の旧領を与えられ、摂津国有岡城主となった。
本能寺の変の後は羽柴秀吉らと共に山崎の合戦に臨み、明智光秀を討った。その後も秀吉と誼を通じ、その推挙によって織田氏の宿老となり、織田氏の後継者を決めた清洲会議では秀吉と共に秀信を推した。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦においては秀吉に与し、その功によって織田信孝旧領の美濃国大垣13万石、恒興の嫡子の元助は美濃国岐阜城を与えられた。
翌天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦では女婿の森長可と共に尾張国犬山城を攻略。しかし羽黒での合戦に敗れ、4月9日、徳川家康の本拠・三河を衝こうとした豊臣秀次隊に属して従軍したが、敗れて子・元助と共に討死した。49歳。法号は護国院雄岳宗英大居士。
二男・輝政が家督を相続、岐阜城主から姫路城主となった。