織田家臣・森可成の二男。長一(ながかず)、勝蔵ともいう。武蔵守。美童で有名な森長定(蘭丸)の兄。妻は池田恒興の娘。
織田信長に仕え、元亀元年(1570)9月に父・可成が近江国宇佐山城で討死したのちに家督を継いで美濃国金山(兼山)城主となる。
元亀3年(1572)4月の三好三人衆との対戦、天正2年(1574)の伊勢長島一向一揆:その3に参加。天正3年(1575)の長篠の合戦においては織田信忠の軍勢に属して功を挙げた。
天正10年(1582)2月より武田征伐に従軍し、織田信忠の軍勢の先陣として活躍、信濃国飯田・高遠城の戦い:その2で勇名を馳せた。武田氏滅亡後は、信濃国川中島4郡(水内・高井・更科・埴科)を加封されて海津城に入り、所領を接する上杉氏への警戒にあたった。
同年6月の本能寺の変のあと、領内で一揆勢が蜂起すると、これと大いに戦い、その猛勇ぶりから『鬼武蔵』と呼ばれた。だが新領を保つことができず、金山に帰り、一時は織田信孝に属した。
のち羽柴秀吉に臣従し、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦に参戦。徳川家康の本拠・三河国を突こうとしたが、その動きを察知した徳川軍に迎撃されて4月9日に敗死。27歳だった。遺領は弟の森忠政が継いだ。