森可成の六男。森長可・森長定(蘭丸)の弟。幼名は千丸。右近大夫・美作守・侍従・左中将・従四位上。北信濃に所領を持ったことから、川中島侍従とも呼ばれた。
元亀元年(1570)の出生と間を置かずして父と長兄が戦死し、天正10年(1582)の本能寺の変で三兄・四兄・五兄を失う。そして天正12年(1584)、羽柴秀吉に属していた次兄の長可が小牧・長久手の合戦で討死したため、家督を相続するとともに遺領の美濃国金山7万石を継いだ。
天正15年(1587)、従四位下・侍従に叙任、羽柴の姓を受ける。
天正20年(=文禄元年:1592)からの文禄の役に際しては肥前国名護屋城の築城、守衛の任にあたった。
慶長3年(1598)の秀吉の死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600)2月、家康から北信濃4郡(水内・高井・更科・埴科)の13万7千5百石に大幅加増されて信濃国海津城主となった。同年の関ヶ原の役には塩尻まで出陣して、所領を接する信濃国上田城主・真田昌幸の動きを牽制した。
慶長8年(1603)2月、美作国への加増転封の沙汰を受けて18万6千5百石の一国大名となった。入部後は鶴山の地を城地と定めて津山と命名し、領国の惣検地を行うなど精力的に領国経営に努めたが、在地土豪の一揆や重臣の反目などで難航したため、叔父・可政を執権職に就けて藩政の中枢を整備した。
慶長年間末期の大坂冬の陣・夏の陣にも徳川方として従軍。
寛永3年(1626)、従四位上に昇進。
寛永11年(1634)7月7日、65歳で死去した。3代将軍・徳川家光上洛に際して京都に赴いたときの食事が原因となって急死したという。