長篠(ながしの)設楽ヶ原(したらがはら))の合戦

天正2年(1574)6月に堅城・遠江国高天神城を落とした武田勝頼は、三河国長篠城の奪還にも力を注ぎ始めた。長篠城はかつて武田方だったものが、城主の寝返りによって天正元年(1573)より徳川家康に属すようになっていたのである。家康も天正3年(1575)2月には長篠城を修築し、奥平信昌を城主として武田方の攻撃に備えたのである。
長篠城は寒狭川と大野川に挟まれた断崖絶壁上という要害を備えていたが、規模が小さい城であった。

勝頼が具体的に長篠城攻めにかかったのは天正3年(1575)5月11日からのことである。
勝頼は正面の医王寺に本陣を置き、甲州金山の金掘衆に城塁を掘り崩させて三の丸と瓢・弾正曲輪を占拠した。また、川の対岸にも多数の兵を配置して、川にも鳴子を蜘蛛の巣のように張りめぐらすなど、鉄壁の包囲網をもって兵糧攻めにかかったのである。
この状況を知った家康は、織田信長に援軍を要請した。長篠城の守兵は5百、それを攻める武田軍は1万5千の兵を擁していたという。それでも奥平信昌は玉砕を覚悟で徹底抗戦を続け、援軍を待った。援軍督促の使者として鳥居強右衛門を送ったのはこのときのことである。
その頃の信長は畿内での戦いに忙しく、自分自身も思うように身動きが取れないという苦しい状況下にあったが、思い切って3万余という大軍を投入することにした。その理由のひとつには、東方が撹乱されれば信長自身の天下統一がおぼつかなくなるためで、もうひとつは徳川家との義理である。
13日に岐阜を発した信長は岡崎城に急行、翌日にはそこで家康と合流。このときに強右衛門の要請を受けた。そして18日、織田・徳川連合軍は長篠城の西方に位置する設楽郷に到着し、信長は極楽寺に、6千の軍勢を率いる家康は高松山に本陣を置いた。織田・徳川軍はその夜から連子(連呉)川に沿って、約5キロに渡る柵を作り始めている。これが馬防柵と呼ばれるもので、信長はこの柵を構築するため、従軍の兵士に柵木一本と縄一把の携行を義務付けていたのであった。また、馬防柵の構築だけでなく空掘も掘らせたことから、布陣というよりは一時的な砦を作ったに等しい。

一方の武田方でも19日に軍議を開いている。その結論に基づき、武田軍は19日夜から20日にかけて大幅な軍勢の移動が行われた。これは長篠城の包囲を解き、長篠城の押さえとして2千ほどの兵を鳶ヶ巣山砦に残し、主力を突撃軍として清井田付近に進出させるためである。

これに対し信長は、20日の夜に徳川家の重臣・酒井忠次を呼び、金森長近率いる鉄砲隊を含めて4千の兵を預け、鳶ヶ巣山砦攻略に向かわせた。この部隊は一見すると今回の合戦には直接の関係がないようにも思われるが、実は勝利への大きな布石なのである。
そして5月21日の早朝、織田・徳川連合軍は設楽ヶ原に布陣を完了した。武田軍も寒狭川の橋を渡って設楽ヶ原に到着したのである。

午前6時頃、武田軍右翼にいた山県昌景隊が織田・徳川連合軍の大久保隊めがけて攻撃を開始。これが開戦の合図となったのである。
進撃する武田軍に対し、織田・徳川勢はほとんど動くことはなかった。陣に籠もったまま、武田軍が近づいた頃合を見て鉄砲で一斉に掃射したのである。
この合戦に備えて、織田・徳川連合軍は多数の鉄砲(種子島銃)を用意していた。合戦における鉄砲の導入はこれが初めてではないが、これだけの鉄砲隊が機能したのは初めてだろうと思われる。
また、馬防柵・空掘も効果を発揮した。この障害物によって機動力を削がれ、そこを鉄砲で至近距離から狙い撃ちにされたのである。
鉄砲の轟音が鳴り響く度に、武田の将兵は数を減らしていった。
一方、鳶ヶ巣山砦に向かった酒井隊は砦を急襲、これを陥落させていた。これにより武田軍は前方に織田・徳川連合軍、後方に長篠城と酒井忠次の別働隊とに挟撃され、逃げ道を失ってしまったのである。こうして戦国最強の武田騎馬隊は見る間に壊滅、織田・徳川連合の圧倒的な勝利となった。合戦は8時間ほどに及んだという。

この合戦において武田方では馬場信房・山県昌景・内藤昌豊・原昌胤・真田信綱など、信玄時代からの多くの有能な将士を失った。
この合戦に投入した武田方の兵力1万5千のうち生還できたのはわずか3千、1万2千が戦死あるいは逃亡したというのが通説だが、史書によって違いがあるので鵜呑みにはできない。また、連合軍側では約6千の死者が出たという。が、武田勢が人材的にも兵力的にも壊滅的な損耗を受けたことは間違いない。
勝頼はわずかに生き残った兵と共に甲府へと敗走した。

この合戦には3千挺の鉄砲隊を三段(3人一組)に分けて一段目(1人目)が発砲、その間に二段目(2人目)が点火態勢を取り、三段目(3人目)が筒の掃除や弾込めを行い、代わる代わる射撃を行うという方法によって発砲準備に時間を要するという当時の鉄砲の弱点を克服、間断なく射撃することができたとする有名な通説があるが、それは間違いのようである。
実際に用いられた鉄砲の数は1千ないし1千5百挺といわれ、三段撃ちという戦術も疑問視されている。しかし馬防柵・空堀を併用した鉄砲戦術が効果を示したことは事実である。
また武田の軍勢の方も『騎馬軍団』と称され、あたかも騎馬武者のみによる編成のような印象を受けがちだが、実際には騎馬武者と徒士武者が混在する隊である。しかしそのように称されるということは、他の軍勢に比べると騎馬武者の割合が多かったのかもしれない。
武田騎馬軍団対織田鉄砲隊の三段撃ち、という見方で捉えられがちなこの合戦であるが、実際は通説ほど突飛なものではない。鳶ヶ巣山砦の奇襲による武田軍退路の遮断、挟撃態勢を作ったという戦術にも着目されるべきである。