金森長近(かねもり・ながちか) 1524〜1608

織田家臣。土岐氏の支族・大畑定近の子。近江国野洲郡金森に生まれる。幼名は五郎八(ごろはち)。初名は可近。兵部卿法印素玄。
数多くの合戦に功を立て、織田信長に仕えてからは長の一字を賜り、長近を諱とした。
織田家中では赤母衣衆(使番役)のひとりとして活躍した。
はじめ領地を美濃国に与えられていたが天正3年(1575)、長篠の合戦や越前侵攻に勲功があって越前大野3万石を領し、柴田勝家の与力大名となる。
天正6年(1578)、荒木村重が信長に叛いたときにはその征伐軍に従軍し、翌年12月には村重一族成敗の奉行となった。
天正10年(1582)の武田征伐には飛騨口より信濃国へと侵攻した。山崎の合戦においては羽柴秀吉に与して明智光秀を攻めた。また同年に従四位下・兵部大輔に叙任され、入道して兵部卿法因素玄と号す。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦でも秀吉に従う。天正13年(1585)の越中征伐に際しての飛騨国平定に功があり、のち飛騨国高山城3万8千7百石の領主となる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役には東軍(徳川方)に属し、戦後には美濃国上有知・関で2万石、河内国金田で3千石を加増された。
長近は芸能に長じ、特に蹴鞠と茶の湯に造詣が深かったという。自らも茶碗をつくり、五郎八茶碗の名で有名。他にも金森肩衝などの名物茶器を所有した。京都伏見に書院と茶亭を造営し、秀吉や徳川家康徳川秀忠などを招いて遊宴を催したという。
茶の湯は千利休に学び、古田重然とも親交があった。のちに勘当されるが、嫡孫の重近(宗和)は近世初頭の代表的茶人となった。
慶長13年(1608)8月12日、伏見にて没した。85歳。法名は金竜院要仲素玄。