天正10年(1582)の山崎の合戦で明智光秀を倒した羽柴秀吉は、その後に行われた清洲会議で、織田信忠の嫡男・三法師(のちの織田秀信)を織田信長の後継者として推し、信長の三男・織田信孝を後継者にと考えていた柴田勝家らと対立することになった。合議の結果、織田氏の跡目には三法師が就くこととなり、叔父にあたる織田信雄・信孝がその後見役として補佐することが取り決められたのである。
政争に敗れた勝家は、このとき以来秀吉の排除に情熱を燃やすようになり、かねてより秀吉と不仲であった滝川一益や佐々成政らの諸将に働きかけ、打倒秀吉の画策を始めたといわれる。
そして秀吉もまた、勢力を確固たるものにするため、信長旧臣の懐柔に意を注いだ。
この年の暮れは積雪が多く、これを好機として秀吉は近江国長浜城を攻めた。城主は勝家の養子・柴田勝豊である。通常時であれば勝家の救援もあったであろうが、深い積雪のために勝家は居城の越前国北ノ庄城から救援に赴くこともできなかったのである。
頼みの援軍も期待できないとあっては城を守りきることもできず、勝豊は降伏した。さらに秀吉は12月中旬に、勝家に同調していた美濃国岐阜城の信孝をも攻め、これも降伏させた。
天正11年(1583)1月、伊勢国亀山城の城主だった関盛信が秀吉を頼って城を出て、それに代わって盛信の重臣のひとり、岩間氏が滝川一益の後ろ盾を得て新城主におさまった。さらに一益も岡本重政を鈴鹿に攻め、鈴鹿口を固めて備えを強化したのである。
この伊勢国における異変を知った秀吉はその頃姫路にいたが、急遽兵をまとめて伊勢に出陣した。これらのことは勝家が裏で糸を引いていたようであるが、秀吉が伊勢の滝川一益と対陣しているときに自らも挙兵し、秀吉軍を挟撃しようとしたものである。
冬の雪解けを待っていたかのように3月3日、勝家は佐久間盛政らを先鋒として越前国から出発させ、ついで9日には勝家自身も北ノ庄城を発し、12日に近江国柳ヶ瀬に着陣した。
これを知った秀吉は、伊勢に若干の押さえの兵を置いて、自らは大軍を率いて近江に入り、3月12日には長浜城、17日には木之本にまで進んだ。
このときの軍勢の数は秀吉軍が5万、勝家軍が2万ほどといわれる。
勝家の先鋒・佐久間盛政は行市山に陣を構え、内中尾山に勝家の本陣が置かれた。対する秀吉は左禰山に堀秀政、田上山に羽柴秀長、大岩山に中川清秀、岩崎山に高山重友、そして賤ヶ岳に桑山重晴を置いていた。
対陣はしばらく膠着状態となっていたが、降伏していた信孝が岐阜城で再び秀吉に敵対する動向を見せたため、これを抑えるために4月18日より美濃大垣へと移っていた。軍勢は未だ近江にはりつけてある。
信孝挙兵のによって挟撃の好機と捉えた佐久間盛政・柴田勝政兄弟の軍勢が、秀吉の留守中に突破口を開いてしまおうと、不意に余呉湖畔を進んで賤ヶ岳の麓を通って大岩山砦の中川清秀隊を襲い、4時間に及ぶ激闘の末、これを落とすことに成功した。これが4月20日のことである。中川清秀はこのとき、味方の退却勧告を聞き入れず、最後まで戦って討死した。
賤ヶ岳砦の桑山隊は砦を捨てて逃走、岩崎山の高山隊は羽柴秀長の陣へと撤退した。
この対応として羽柴勢は賤ヶ岳砦を丹羽長秀・藤堂高虎・桑山重晴らで固め、羽柴秀長率いる大軍を木之本周辺に配置し、強固な防備態勢を取った。
急を聞いた秀吉は賤ヶ岳戦線へ戻ることを決め、まず先遣隊を出し、北国脇往還沿いの家々に命じて松明と握り飯を用意させ、1万5千の兵を率いて午後4時に大垣を出発した。盛政は、秀吉の率いる本隊が戻ってくるのは早くても21日の夕方と考えていた。大軍の移動にはそれくらいの時間を要することが常識だったからである。
ところが秀吉はその意表をつき、迅速な行動で木之本に到着したのである。大垣から木之本までの距離は約52キロであるが、それを5時間ほどで疾走したという。そして息つく暇もなく、全軍を動員して反撃態勢に移った。引きあげようとする佐久間隊を追撃する目算を立てたのである。
そして21日の午前2時頃から戦いが始められ、盛政隊の殿軍である柴田勝政隊との間で戦いとなり、秀吉の馬廻り部隊であった福島正則・加藤清正らの大活躍によって柴田隊を負い崩すことに成功した。これがいわゆる「賤ヶ岳の七本槍」である。この追撃戦で柴田勝政は戦死した。
柴田勝政隊の前方にあった佐久間盛政隊は柴田隊の残兵を収容し、羽柴勢へ向けて逆襲にかかった。しかしこのとき、佐久間隊後方の茂山に布陣していた前田利家らの部隊が戦線より離脱をはじめたことにより連鎖的に裏崩れを起こし、佐久間隊は壊乱した。これに乗じて羽柴勢はさらに猛撃を加えたのである。
この前田利家らの離脱は、秀吉が予め手を回して味方になることを誘っていたことによるともいわれている。
盛政は隊の壊滅後、郷民に捕えられた。
一方の柴田勝家は、20日に内中尾山の本陣から南下して狐塚に布陣し、大岩山砦を陥落させた盛政に、すぐに撤兵してくるように厳命を下していた。しかし盛政が戻らないため、そのまま布陣していたのである。そこへ21日に羽柴勢が佐久間隊を追い崩した勢いを駆って殺到、勝家本陣の側面から攻撃をかけたのである。これと併せて左禰山の堀秀政も下山、木之本にあった羽柴秀長隊も前進してきたために勝家勢は総崩れとなり、北ノ庄めざして潰走することになったのである。
この戦いのなかで勝家配下の武将・毛受勝照が勝家の馬標を受け、勝家に代わって討死をとげた。
この戦いのあと、羽柴勢は柴田勢にさらに追い討ちをかけるべく越前へと向けて侵攻を続ける。