前田利家(まえだ・としいえ) 1538〜1599

織田家臣。尾張国愛知郡荒子村に生まれる。土豪・前田利昌(利春)の四男。幼名は犬千代、通称を孫四郎、又左衛門と名乗る。のちにその武勇から「槍の又左」と呼ばれるようになる。
若い頃は『かぶき者』として名を馳せた。自身はかぶき者を通り過ぎても、利家はかぶき者を愛した。その言うところは、「若い者には好きなだけ高言壮語させるがよい。戦場では、その高言を嘘だと思われまいとして奮闘するものである」というのであった。
天文19年(1550)、知行高50貫(125石)で織田信長に仕え、尾張国海津の合戦に初陣。しかし永禄2年(1559)、私闘を引き起こして織田家を追放された。
浪人となった利家は帰参を果たすべく、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦に陣借りをして参陣、首2つを取る活躍を見せたが信長には許されなかった。しかし尚もその翌年の森辺の合戦に参陣、ここでも戦功があり、ようやく信長の許しを得て織田家に復帰したという。
永禄12年(1569)、信長の命令によって兄・利久から家督を譲られ、尾張国荒子城主となる。
姉川の合戦長篠の合戦などに従軍して軍功を挙げた。北陸平定にも勲功があり、天正3年(1575)には柴田勝家の与力大名として越前国府中3万3千余石を領し、天正9年(1581)には能登一国20万石を与えられて七尾城主となる。
天正10年(1582)に本能寺の変が起こり、山崎の合戦ののちの清洲会議において、羽柴秀吉と勝家の対立が表面化した。利家にとっての勝家は、浪人時代に何かと世話になった恩人であり、長年戦場を共にしてきた戦友でもある。その一方で、秀吉とも若い頃から親交が深く、娘の豪姫を秀吉の養女に与えている。
天正11年(1583)4月の賤ヶ岳の合戦では、利家は柴田勝家の与力大名であったために柴田方であったが、戦いを放棄して自領の府中に退き、結果的には秀吉の戦勝に寄与することになった。その直後の北ノ庄城の戦いより羽柴秀吉の幕下に参じ、加賀国を加封されて尾山(金沢)城に移った。
天正12年(1584)9月には佐々成政末森城を攻められたがこれを防いだ。
天正13年(1585)8月の越中征伐に従軍。その戦功で越中国を所領に加え、秀吉の片腕として活躍した。知行も増大を続け、いわゆる「加賀百万石」を実現した。
天正15年(1587)の九州征伐においては京都・大坂の留守を預かり、天正18年(1580)の小田原征伐では嫡子・利長と共に参陣し上野国松井田城・武蔵国鉢形城などを降した。
文禄の役においては、8千人の軍役で肥前国名護屋に駐留した。
慶長元年(1596)、従二位権大納言に叙任。
のちに豊臣五大老に累進、秀吉の死後は徳川家康と拮抗した勢力を後ろ楯に秀吉遺児・秀頼の後見人となった。
慶長4年(1599)閏3月3日、徳川家康・石田三成両派の対立、秀頼の行く末を案じつつ、大坂で没した。62歳。法名は高徳院殿桃雲浄見居士。
利家の領地である能登・加賀・越中はかつては一向一揆が盛んな地であり、武士による統治をことさらに嫌うという風土であったが、ここを治めるにあたって強攻策は取らずに懐柔し、ときには目溢しをするなど円滑に支配した。
義侠心に富み、人望が厚く、諸将からも慕われた。蒲生氏郷が没したとき、子・鶴千代(のちの秀行)が幼いために遺領存続が危ぶまれたが、夫人と共に秀吉夫妻に説いて蒲生家の本領安堵を実現させた。
また文禄4年(1595)の豊臣秀次事件の際、親しくしていた浅野長政幸長父子に連座の嫌疑がかかったときには手を尽くしてその払拭に努め、幸長の助命に成功した。
戦国時代にあっては珍しい経済感覚の持ち主で、数理に明るく、具足櫃には常に算盤を入れてあり、これで兵の数を計算したり、金や穀物の算出をしていたという。