安井重継の子。通称は弥兵衛。初名は長吉。弾正少弼。豊臣政権五奉行のひとり。
叔父・浅野長勝の娘を娶り、その養子となる。
はじめ織田信長に仕えたが、羽柴秀吉の妻と長政の妻が腹違いの姉妹であるという相婿の縁により、その配下となる。こうした血縁に薄い秀吉に重用され、主に帷幕の将となって軍監役を務めた。
秀吉の属将となった長政は、秀吉が天正2年(1574)に近江国長浜城主となると、秀吉不在時の留守居役を任されるまでの信任を得ている。さらに中国地方の侵攻には秀吉と行動を共にし、前線部隊長として勇戦力闘した。
本能寺の変後の山城国の検地を担当し、杉原家治と共に京都奉行を勤めたり、姫路城の普請を担当したりした。
また、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦の後には戦後処理として徳川家康との和解に奔走するなど、外交面でも優れた手腕を見せた。
天正12年には近江国甲賀郡などで2万石、天正15年(1587)9月には九州征伐の功をもって若狭国小浜城主、8万石を与えられる。
天正18年(1590)の小田原征伐では武蔵国岩付城攻めの指揮を執り、鉢形城攻撃にも参加。ついで奥州の九戸政実の乱鎮圧に際しては、豊臣秀次の軍奉行として従軍している。
文禄2年(1593)には嫡子の浅野幸長領と併せて甲斐22万石を領するに至り、伊達政宗・南部信直・宇都宮国綱・那須資晴・成田氏長らを与力として付され、豊臣政権の奥羽・北関東支配の一翼を任されるほどに重用された。
同年10月、家督を幸長に譲った。この頃、石田三成ら他の五奉行は家康の専横ぶりを怒り、家康打倒を画策したが、長政のみは家康と気脈を通じ、支持した。しかし慶長4年(1599)家康の暗殺を謀ったという疑いをかけられて、武蔵国府中(八王子とも)にて蟄居を命じられた。だがこれは、増田長盛や長束正家の讒言によるものと見られている。
また同年、武断派と呼ばれる親徳川派の武将である加藤清正・福島正則らが三成を除こうとしたときも、長政は幸長と共に武断派に与した。
これよりのちも長政は徳川家と密接な交友を保ち、慶長5年(1600)の関ヶ原の役では東軍に与した。
役後は江戸に住み、慶長11年(1606)に隠居料として常陸国真壁・筑波郡のうちで5万石、慶長14年(1609)には近江国神埼郡で5千石を与えられた。
慶長16年(1611)4月7日、下野国塩原で湯治中に死去。64歳。天文16年(1547)生れの65歳とする説もある。法号は伝正院功山院道忠。
長政は囲碁に長じ、しばしば家康と盤上の争いを楽しんでいたことが知られ、長政の死後は家康も囲碁を断ったという。