宇都宮国綱(うつのみや・くにつな) 1568〜1607

下野国宇都宮氏第22代当主。宇都宮広綱の子。母は佐竹義昭の娘。通称は弥三郎。正四位下・下野守。
宇都宮氏はかつて下野・常陸国の間に勢いを揮った名族であったが、家中の内訌や被官の芳賀氏・壬生氏・皆川氏らが自立の動きを示したため、勢威が衰えていた。
天正5年(1577)12月、弟・朝勝を結城晴朝の養子とすることで下総国の結城氏と同盟を結んだ。
天正12年(1584)頃より北条氏の勢力が増大し、同年の沼尻の合戦には佐竹義重とともに北条勢に対抗した。
天正13年(1585)8月、多気山城に本拠を移すも、天正17年(1589)には人質を出して北条氏に屈服した。しかしその一方で天正13年より羽柴秀吉にも款を通じ、天正18年(1590)の小田原征伐に参陣。この抗争中の5月、佐竹義宣とともに壬生義雄の鹿沼城を陥落させた。その後の5月27日に秀吉に謁見し、小田原征伐後には下野・常陸坂戸などで18万余石の所領を安堵された。
天正19年(1589)、陸奥国一揆の鎮圧軍に参陣。
天正20年(=文禄元年:1592)から4年(1595)の文禄の役においては増田長盛の軍勢に属して弟・芳賀高武らとともに渡海している。この間の文禄4年(1595)3月に正四位下・侍従に叙任した。
慶長2年(1597)、浅野長政の三男・長重を養子に迎えようとしたが、これに反対する弟の高武と賛成派の重臣・上野川、片庭らとが国許で争い、慶長2年(1597)9月にこの不始末を問われて所領を没収され、宇喜多秀家に預けられた。
翌慶長3年(1598)4月、慶長の役に出陣すれば旧領復帰させる、との沙汰を受けて渡海したが、秀吉の死で反故となった。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては、東軍に味方しなかった常陸国の佐竹氏のもとに身を寄せていたため、戦後に追放に処された。
慶長12年(1607)11月22日、江戸浅草で死去。享年40。法名は大昌院心翁浄安。