下野国宇都宮氏第21代当主。宇都宮尚綱の子。天文14年(1545)生まれともいう。幼名を伊勢寿丸。通称は弥三郎。下野守。下野国宇都宮城主。
天文18年(1549)9月に父・尚綱が那須高資・芳賀高照・壬生綱雄らと下野国喜連川の五月女坂で戦って討死した際、重臣の芳賀高定に守られて宇都宮城から落ち延び、高定の居城である真岡城で庇護を受けて成長した。
この後、宇都宮城は芳賀高照、ついで壬生綱雄の支配するところとなるが、常陸国の佐竹義昭や相模国の北条氏康の援助を得て弘治3年(1557)の冬に壬生氏を逐い、宇都宮城主に復帰した。
永禄3年(1560)10月には幼名で署名しており、翌年8月には実名での署名が見えることから、この間に元服したとみられる。
またこの永禄3年、北条氏を打倒するために関東に出兵してきた上杉謙信に従軍し、翌年3月には北条氏の本城である相模国小田原城を攻めた(越山:その1)。その2年後の永禄6年(1563)4月に謙信が北条方勢力の下野国小山城を攻めた際(越山:その3)や永禄7年(1564)3月の上野国和田城攻め(越山:その4)にも上杉方として従軍しているが、この間にも北条氏に従属した形跡も見受けられ、上杉・北条という大勢力の狭間にあった宇都宮氏は他の中小領主と同様に、上杉勢が越山するとこれに従い、上杉勢が帰国して北条勢が勢いを盛り返すとその麾下に属すといった、旗幟の変転を余儀なくされた。
永禄9年(1566)5月頃までには人質を出して北条氏に従属したが、永禄10年(1567)頃に反北条勢力の佐竹義重の妹を妻とし、密接な関係を結んだ。
宇都宮氏はその代々が家中の統制に苦しみ、強い権力を執行できなかったが、この広綱もその例に漏れず、家臣の離反を受けた。元亀3年(1572)には麾下であった皆川氏が自立を図る動きを見せ、佐竹義重の援助を受けて同年暮れ頃から翌年1月半ばにかけて交戦して退けるも、屈服させるには至らなかった。
広綱は病弱であったといい、天正4年(1576)8月7日に没したが、嫡子・国綱が幼少であったために死没を隠匿され、天正8年(1580)まで在世したように見せかけられた。