宇都宮尚綱(うつのみや・ひさつな) 1512〜1549

下野国宇都宮氏第20代当主。宇都宮興綱の子。母は小田政治の娘。妻は結城政朝の娘。通称は弥三郎。初名は俊綱。左衛門尉・下野守。下野国宇都宮城主。
天文3年(1534)に父・興綱が重臣の芳賀高経らに幽閉された際に出家し、磁心院主となる。
興綱は天文5年(1536)8月に芳賀高経らによって生害されており、天文3年8月付の尚綱発給の安堵状があることから、尚綱は出家したのちに芳賀氏らによって還俗させられて宇都宮氏の家督を相続するも、実質的には芳賀氏らの意向のままに動く傀儡の当主であったと思われる。
天文8年(1539)8月、小山高朝に接近していた芳賀高経を誅殺し、家臣・益子定宗に芳賀氏の名跡を継承させて芳賀高定と名乗らせ、家中の統制強化を図っている。
またこの頃には那須政資・高資父子の分裂抗争に介入しており、尚綱は佐竹義篤・小田政治と連合して政資を支援、同年10月には高資の拠る下野国烏山城を攻めている。
天文18年(1549)9月20日、那須高資・芳賀高照(高経の子)・壬生綱雄らと下野国喜連川の五月女坂に戦って敗れ、討死した(五月女坂の合戦)。享年38。