下総国結城氏第15代当主。第14代・結城氏広の子。母は小田持家の女。通称は七郎。左衛門尉。妻は宇都宮忠綱の妹。下総国結城城主。
文明13年(1481)3月に父・氏広が没したため、わずか3歳で家督を継ぐ。政朝が幼少のため結城城西館に在った重臣・多賀谷和泉守が家政を執ったが、専横の振る舞いが多かったため、和泉守と対立する多賀谷基泰(別称を家種・祥潜、和泉守の叔父)と結んで明応8年(1499)8月に和泉守を討ち、実権を取り戻した。
のち、同族の山川氏や多賀谷氏・水谷氏ら重臣との関係を調整しつつ軍事指揮下におき、下総国結城郡から常陸国西域に跨る勢力圏を形成した。
古河公方の足利政氏・高基父子の抗争(永正の乱)に際しては高基に与し、永正11年(1514)に政氏方の佐竹義舜・岩城重隆の連合軍が高基方の宇都宮忠綱を攻めたとき、忠綱を助けて連合軍を撃退し、大いに武名を挙げた(竹林の合戦)。
しかしのちに政朝と忠綱は不和となり、大永6年(1526)に宇都宮氏において宇都宮忠綱と宇都宮(芳賀)興綱との内訌が生じると興綱を支援、12月には下野国に侵攻して河内郡猿山の合戦で忠綱を破り、興綱の宇都宮氏家督簒奪に助力した。この結果、忠綱は壬生氏を頼って鹿沼へ逃れ、政朝は宇都宮氏に奪われていた下野中村12郷を奪回、後世には『結城氏中興の祖』と呼ばれるようになった。
大永7年(1527)、家督を子の政勝に譲って隠居、剃髪した。
また、同族の小山氏に子・高朝を入嗣させて影響力を強め、勢力の拡張を図っている。
天文16年(1547)7月13日に没した。享年69。法名は永正寺宗明孝顕。天文14年(1545)没で享年67とも伝わる。