小山高朝(おやま・たかとも) 1508〜1574

系図では結城政朝の二男とされるが、実は三男か。結城政勝の弟。通称は六郎。弾正大弼・下野守。下野国小山城(別称:祇園城)主。
小山氏に入嗣して天文4年(1535)12月までには小山政長の跡を継いでいるが、政長には嫡男・小四郎があったことも知られており、この小四郎を排斥しての家督継承である。この小山氏の家督問題に関しては古河公方の足利高基晴氏父子の対立とも関連し、高朝は晴氏、小四郎は高基と連携し、晴氏の家督継承と共に高朝の優位も確定したとみられる。
北に所領を接する宇都宮氏と対立し、天文8年(1539)には宇都宮尚綱と不仲であった宇都宮氏重臣・芳賀高経を支援。また、同年頃より顕著となった那須政資・高資父子の対立に際して、同族である結城氏や白川氏と共に高資を支持し、政資に与した宇都宮氏の所領へと侵攻しているが、天文11年(1542)頃に尚綱が結城氏と婚姻したことを受けて和睦した。
足利晴氏が家督の継承をめぐって北条氏から圧迫を受けた際にも晴氏に与して支援し、天文14年(1545)から翌年にかけての河越城の夜戦にも晴氏の要請に応じて軍勢を派遣しているが、これに勝利した北条氏康の妹の子である足利義氏が公方となったのちの天文23年(1554)には、11郷の所領を没収された。これと前後して家督を嫡男・秀綱に譲っている。
天正2年(1574)12月3日に没した。