下野国の国人領主。那須氏下那須家・那須政資の子。母は岩城常隆の娘。那須資胤の異母兄。妻は芳賀高経の娘。下野国烏山城主。
天文8年(1539)には山田城に拠る父・政資と対立し、これが宇都宮氏ら周辺領主の対立抗争とも結びついて、宇都宮尚綱(俊綱)・壬生綱雄や常陸国の小田政治・佐竹義篤(16代)らとは敵対し、小山高朝・結城政勝・芳賀高経・塩谷由綱・皆川成勝・皆川忠宗、陸奥国の白川義綱・岩城重隆らと連携した。
この政資との抗争は高資が優位に進めたようであり、天文13年(1544)頃には政資から高資に家督が譲られたとみられ、天文15年(1546)の政資の死没によって名実ともに那須氏の主導権を掌握した。
那須氏はかつて上那須家と下那須家に分裂して抗争しており、通説では永正13年(1516)に高資の祖父にあたる下那須家の那須資房によって上・下那須家が統一されたとされているが、実際には高資の代に至っても未だ大田原・大関・伊王野・福原といった上那須家の旧臣を家臣化できておらず、下那須家における父子相克を克服したにすぎない。
このためか、天文18年(1549)に佐竹義昭の二男・鶴寿丸(のちの佐竹義尚)を養子に迎えて佐竹氏やその外戚にあたる岩城氏を後ろ楯とすることで権力基盤の強化を図り、同年9月には宇都宮尚綱と抗争していた芳賀高照・壬生綱雄らと結んで尚綱を討った(五月女坂の合戦)。
しかし天文20年(1551)1月21日(22日とも)、下那須衆の千本資俊(道長)によって千本城に誘き出されて殺害された。その経緯は不詳であるが、千本氏が宇都宮尚綱の遺児・広綱、あるいは上那須家旧臣らの調略を受けたともいわれ、さらには高資の弟で後継者となった那須資胤の謀略であった可能性も考えられている。