壬生綱雄(みぶ・つなお) ?〜1576

名の読みを「つなかつ」とも。中務大輔。下野国壬生城主。
宇都宮氏の被官であるが自立的な活動を展開し、天文5年(1536)頃から小山高朝の所領へと侵攻している。
天文8年(1539)頃に宇都宮家中が当主の宇都宮尚綱と重臣の芳賀高経を軸とする両派に分裂すると、壬生氏は尚綱派として活動したが、のちには尚綱に背き、天文18年(1549)9月、那須高資や芳賀高照(芳賀高経の子)と連合して下野国喜連川の五月女坂にて尚綱を討った(五月女坂の合戦)。
この後、宇都宮氏の本城である下野国宇都宮城は芳賀高照が支配するところとなるが、天文20年(1551)1月に那須高資が家臣の千本資俊に謀殺されると芳賀高照を逐って宇都宮城を占拠し、主家である宇都宮氏に圧迫を加えたが、宇都宮氏を支援する佐竹義昭によって弘治3年(1557)の冬頃に宇都宮城から逐われた。
永禄3年(1560)から翌年にかけて越後国の上杉謙信が関東に侵攻(越山:その1)した際には足利義氏北条氏康陣営に与し、義氏の拠る下総国関宿城に籠城している。
天正4年(1576)2月25日、叔父・壬生周良に鹿沼城で謀殺されたという。