五月女坂(そおとめさか)の合戦

下野国の那須高資は、天文8年(1539)より父の那須政資と抗争に及んだ。この内紛には周辺の領主も介入しており、政資には宇都宮尚綱・小田政治・佐竹義篤(16代)らが与し、高資は小山高朝結城政勝芳賀高経・塩谷由綱・白川義綱・岩城重隆らの支援を得た。この抗争を経て高資は天文13年(1544)頃に政資から家督を譲られたようであり、政資が天文15年(1546)に没すると、名実ともに那須氏の主導権を掌握したのである。
また、那須政資に与した宇都宮尚綱においても、宿老の芳賀氏や塩谷氏の勢威を抑えられず、家中の統制に苦慮していた。那須高資方に名を連ねている芳賀高経は、尚綱の父である宇都宮興綱を天文5年(1536)に討ち、尚綱を傀儡の当主として擁立した張本人である。もっとも、尚綱はこの高経を天文8年5月(一説には天文10年:1541)に誅殺し、自身の権力の強化を図っている。
しかし尚綱は、天文15年(1546)頃より被官の壬生綱雄とも対立するようになっていた。壬生氏は天文8年の那須氏の内紛に際しては尚綱とともに政資方に属し、高資方の芳賀高経とは反目していたが、独立志向を強めたためか、天文15年頃には尚綱と抗争を起こすようになっていたのである。

そして天文18年(1549)、宇都宮尚綱と那須高資は本格的な直接対決をすることとなる。
史料によって記述が異なるために経緯を辿ることは難しいが、概ね以下のようになろう。
直接の原因は不詳であるが、この両氏はかねてより塩谷荘喜連川の地をめぐって対立していたといい、9月に尚綱が2千余騎を率いて喜連川の五月女坂に布陣し、対する高資は大田原・大関・伊王野氏らからなる那須衆3百余騎で対抗する。
戦況としては、数で大きく勝る宇都宮勢が優勢であったが、大将である尚綱が那須勢の鮎瀬助右衛門(弥五郎、鮎箇瀬右衛門尉とも)の弓によって射られ、戦死を遂げたことで宇都宮勢の敗戦となった。
芳賀高照(芳賀高経遺子)・壬生綱雄らはこの五月女坂の合戦に際して那須高資方に与したとされるが、史料では合戦自体にその名は見えず、むしろ合戦後に宇都宮城を奪取して芳賀氏、ついで壬生氏が支配したことが知られる。
また、史料によってこの合戦が行われた日も異なっており、『興野系図』隆致の項では同年9月26日、『今宮祭祀録』は同年5月13日、『那須系図』高資の項では天文15年5月13日としている。また、『関八州古戦録』は天文15年5月13日と天文18年4月下旬の2度に亘って当地で合戦があったとするなど、判然としない。