足利義氏(あしかが・よしうじ) 1541?〜1583

古河公方の第5代。足利晴氏の嫡男。母は北条氏綱の娘(芳春院)。幼名を梅千代王丸。従四位下・左馬頭・右兵衛佐。
天文10年(1541)生まれとされるが、天文12年(1543)生まれとする説もある。
はじめは異母兄・足利藤氏(母は簗田高助の娘)が晴氏の嫡子とされていたが、義氏の母の兄・北条氏康の圧力によって藤氏は廃嫡され、天文21年(1552)12月に義氏が古河公方の家督継承者となった。
天文22年(1553)より下総国葛西城を御座所として入部。
天文23年(1554)7月(9月とも)には氏康に反発する晴氏・藤氏父子が下総国古河城に拠って挙兵したが、同年11月には氏康の軍勢によって鎮圧されたことにより、名実ともに義氏が家督を相続することとなった。
弘治元年(1555)11月に元服、将軍・足利義輝から一字を賜って義氏と名乗る。
永禄元年(1558)4月には氏康に推戴されて鶴岡八幡宮に参詣しているが、これは「北条氏による関東支配を後ろ盾にした参詣」として象徴的である。また、同年8月には氏康の意向を受けて御座所を下総国関宿城に移している。
永禄3年(1560)に北条氏の討伐を目論む上杉謙信が関東出兵(越山:その1)してくると抗しきれずに開城し、永禄4年(1561)7月には高城氏の下総国小金城に退去した。永禄5年(1562)10月頃には上総国佐貫城、永禄6年(1562)8月には鎌倉と居地を移している。
永禄11年(1568)頃に古河に戻り、北条氏の勢力下で形式的にではあるが古河公方としての地位を回復しているが、古河公方譜代の重臣で最後まで北条氏への抗戦を続けていた簗田晴助が天正2年(1574)閏11月に北条氏に従属したことにより(関宿城の戦い:その3)、家臣団・奉公衆・所領などのすべてを北条氏に掌握され、古河公方の権力そのものが北条氏に吸収された。
天正11年(1583)1月21日没(関東の暦では天正10年閏12月20日とされる)。法号は香雲院殿長山周善。嫡子がおらず、この義氏の死によって古河公方の名跡は断絶した。