足利藤氏(あしかが・ふじうじ) ?〜1564

古河公方・足利晴氏の庶長子。足利義氏の異母兄。足利藤政・家国の実兄。母は簗田高助の娘。
はじめは古河公方の家督継承者と目されていたが、天文21年(1552)に外戚にあたる北条氏康の圧力によって廃嫡され、氏康の甥にあたる義氏が嫡子に指名された。しかしこれに承服せず、天文23年(1554)7月(9月とも)、隠居していた父・晴氏と共に下総国古河城を奪って北条氏康に抵抗したが敗れて捕えられ、晴氏と共に相模国の秦野(波多野)へ移された。
永禄3年(1560)から翌年にかけて越後国の上杉謙信が関東に侵攻(越山:その1)してくると、謙信に応じた古河公方譜代の重臣・簗田晴助(高助の子)によって新たな古河公方に擁立され、晴助の庇護を受けて古河城に入部した。
しかし、謙信2度目の越山最中の永禄5年(1562)2月、北条氏の攻勢を受けて古河城から退去し、8月ないし9月には里見義堯を頼って上総国久留里城へ移った。
永禄6年(1563)3月頃、3度目の越山を果たした謙信の尽力によって古河城に復帰したが、謙信が帰国したのちの9月には再び北条氏に古河城を攻められて捕えられ、永禄7年(1564)に伊豆国で殺害された。