里見義堯(さとみ・よしたか) 1512?〜1574

安房国里見氏の庶流・里見実堯の子。通称は権七郎。刑部少輔。生年を永正4年(1507)とする説もある。
父・実堯は天文2年(1533)7月、甥で里見氏惣領の里見義豊(義堯の従兄)に安房国稲村城を攻められて自刃した(稲村城の戦い)。このとき義堯は上総国百首城に逃れて相模国の北条氏綱に支援を求め、翌天文3年(1534)4月に安房国犬掛の合戦で義豊を敗死させて里見氏の惣領となり、安房国と上総国西域の一部を支配した。
天文6年(1537)に北条氏との友好を断って小弓公方・足利義明と連衝し、翌天文7年(1538)10月には足利義明に属して下総国国府台で北条氏綱と合戦(国府台の合戦)に及ぶが敗北する。しかしこの戦いで小弓公方が滅亡したため、里見氏が房総半島における最有力大名に成り上がった。
天文13年(1544)頃より上総国に進出して久留里に城を築いて本拠とし(別称:浦田城)、重臣の正木時茂・時忠兄弟を上総国大多喜城と勝浦城に、嫡子である義弘を上総国佐貫城に配置して領国の支配体制を固めた。
天文年間後期より北条氏康との抗争が顕著となり、北条氏の支援を受けた国人領主層の叛乱に悩まされるも、関東地方の鎮定を目指す越後国の上杉謙信と誼を通じることで北条氏を牽制し、弘治2年(1556)10月には相模国三浦郡へ侵攻、北条氏の膝元を脅かした。
永禄5年(1562)頃、入道して岱叟院正五と号し、入道して家督を義弘に譲った。しかし実権は放さず、実質的には義堯が指揮を続けていたとみられる。
こののち、永禄7年(1564)1月の国府台の合戦:その2で再び北条氏に敗れて久留里城から逐われたが、その後は徐々に勢力を回復させ、永禄10年(1567)8月の三船台の合戦にて大勝したことをきっかけとして勢いを取り戻した。
永禄12年(1569)1月、武田信玄との同盟が破れた北条氏康より同盟を求められ、過去の行きがかりからこれを一蹴したが、同年閏5月に氏康と上杉謙信が同盟を成立させると謙信との誼を断ち、逆に信玄と結んであくまで北条氏を敵視する構えを崩さなかった。しかし元亀2年(1571)の氏康没後に北条氏と武田氏の同盟が復活すると、再び謙信と結んでいる。
天正2年(1574)6月1日、久留里城にて没した。法号は東陽院殿岱叟正五沙弥。