足利義明(あしかが・よしあき) ?〜1538

古河公方・足利政氏の二男。足利高基の弟。幼名は愛松王丸。右兵衛佐。号は道哲。
明応2年(1493)に鎌倉鶴岡八幡宮若宮の別当となり、文亀3年(1503)頃に得度して空然と称す。八幡宮裏手の雪ノ下・八正院に居したことから雪ノ下殿、八正院殿とも称された。のちには宗済とも改めている。
古河公方の勢力分裂を謀る北条早雲の後援を得て永正7年(1510)に還俗した。
その後は父・政氏や兄・高基と不和になって流浪していたが、将軍家の分家出身である義明の権威を戴くことで勢力の糾合を図る上総国の真里谷武田恕鑑に擁立され、永正14年(1517)10月には恕鑑入道が原胤隆より奪取した下総国小弓(おゆみ)城に入部した(小弓入部の年月には異説もある)。このため、小弓公方と呼ばれる。
真里谷武田氏という軍事力と小弓城という拠城を得た義明は、古河公方を倒して自らが関東公方になるという野望を抱き、反古河公方勢力や近隣勢力を糾合して房総半島に一大勢力を築いた。
しかし高基・晴氏父子が北条氏綱を後ろ盾に恃んだため不仲となり、大永6年(1526)には安房国の里見実堯に海路より鎌倉を攻撃させている。
天文3年(1534)には軍事力の中核を担っていた恕鑑が死没し、その後に発生した真里谷武田信隆信応兄弟の内訌においては信応を支援、天文6年(1537)5月には里見実堯の子・義堯と協力して武田信隆を攻め降し、真里谷武田氏の内訌を終息させた。
上総国の勢力基盤を固めたのちは武蔵国への侵出を図ったが、天文7年(1538)10月7日、北条氏綱・氏康父子との国府台の合戦で敗死した。