原胤隆(はら・たねたか) ?〜1536

原胤房の子。通称は四郎。越後守・讃岐守・宮内少輔。下総国小弓城主。
原氏は下総守護を世襲する千葉氏の一重臣であったが、享徳の乱最中の康正元年(1455)に胤房が馬加康胤を擁立して千葉氏惣領の千葉胤直一族を壊滅させて(多胡城・志摩城の戦い)より家宰の地位に就き、勢威を揮った。
この胤房が文明3年(1471)9月に戦死したあとに家督を継いだ胤隆の時代が原氏の最盛期であり、その名声は主家の千葉氏を凌ぐほどで、代々千葉氏の子息のひとりが就任する慣例となっていた千葉妙見座主職を自身の三男に継承させており、娘を千葉氏惣領・千葉勝胤に入嫁させているほどである。また、永正6年(1509)10月に連歌師・宗長が下総国小弓に立ち寄った際に招き、連歌に興じたことが『東路の津登』に見える。
小弓城を拠点として上総国への進出をも目論み、永正年間の半ば頃には上総国真里谷城主・武田恕鑑と争い、千葉勝胤の後援を得てこれを圧倒した。勢力挽回を図った武田恕鑑は古河公方・足利高基の弟である足利義明を擁して里見氏と同盟を結び、永正14年(1517)10月、同盟軍6千で小弓城を囲んだ。この武田・里見軍の猛攻に小弓城は落城し、胤隆は小金城に逃れたとされるが、このときの城主は胤隆ではなかったとする説もある。
大永4年(1524)頃までには家督を子(または弟)・基胤に譲っていたと見られる。
天文5年(1536)7月11日没。法号は全岳(または全覚)。