千葉胤直(ちば・たねなお) 1414〜1455

千葉兼胤の嫡男。母は上杉禅秀(氏憲)の娘。従五位下。千葉介。入道して常瑞と号す。上総・下総守護。下総国千葉城主。
永享2年(1430)、父・兼胤の死没を受けて千葉惣領家の家督を相続。
鎌倉府の侍所所司の地位に在り、永享10年(1438)8月に鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の反目が決定的となると、両者の和解を試みたが成らなかった。
この直後に永享の乱と称される両者の抗争が勃発すると、当初は持氏方として出陣し、この陣中においても再び持氏と憲実の融和を図ったが容れられず、9月末頃に持氏陣営から離脱して憲実方へと降った。のちに持氏が捕えられて永安寺に軟禁された際には警固にあたっていたが、幕府から持氏の誅伐を強要された憲実の命を受け、永享11年(1439)2月10日に上杉持朝とともに永安寺を攻めて持氏を自害させた。
永享12年(1440)3月、下総国結城城主・結城氏朝が持氏の遺児である足利安王丸春王丸兄弟を迎えて挙兵した結城合戦に際しては、憲実に属してこれを攻めた。
足利持氏の遺児・足利成氏と関東管領・山内上杉氏一派の抗争(享徳の乱)において派生した千葉氏重臣の円城寺氏と原氏の抗争に際し、胤直は円城寺氏とともに上杉方に属した。しかし享徳4年(=康正元年:1455)3月20日、足利成氏方に属した原胤房・馬加康胤の軍勢に本拠・千葉城を急襲され、子の宣胤や弟の胤賢と共に千田庄内の多胡(多古)・志摩(嶋)城に逃れて防戦したが同年8月12日に多胡城、14日に志摩城を落とされ、15日に妙光寺において自刃した(多胡城・志摩城の戦い)。享年42。
永享12年には下総守護、文安5年(1448)には上総守護として名が見える。