千葉一族。千葉満胤の子。千葉兼胤の弟。陸奥守。
はじめ常陸国の大掾氏の養子となったが、のちに下総国馬加城主となり「馬加屋形」とも呼ばれた。
応永23年(1416)の上杉禅秀の乱においては千葉氏宗家の軍勢に属して出陣し、宗家の姻族である上杉禅秀に与して足利持氏方の軍勢と戦った。永享12年(1439)からの結城合戦にも上杉陣営として出陣している。
文安4年(1447)に持氏の遺児・足利成氏が鎌倉公方に就任すると誼を通じ、関東管領・山内上杉氏と不仲であった勢力の糾合に尽力している。
享徳3年(1454)暮れに享徳の乱が勃発して千葉氏家中にも重臣・円城寺氏と原氏による抗争が派生すると、康胤は成氏方となった原胤房に擁立され、円城寺氏と結ぶ千葉氏宗家との抗争を優位に進め、康正元年(1455)8月には下総国多胡・嶋の両城に拠っていた宗家の千葉胤直・宣胤父子を攻め滅ぼし(多胡城・志摩城の戦い)、千葉氏惣領の地位を襲った。
以後、千葉氏の本城である下総国千葉城に入部したとみられている。
しかし、巻き返しを図る上杉方の要請を受けて千葉一族・東常縁が幕府より派遣されると劣勢を強いられ、康正2年(1456)11月1日、上総国八幡郷において常縁の軍勢と戦って討死した。59歳。法号は大相常応(應)。応安7年(1374)生まれの享年83とする説もある。
首級は京都に送られ、東寺四塚に晒されたという。