東常縁(とう・つねより) 1401〜1494

和歌に秀で、多くの著書と歌集がある歌人として著名であるが、その出自は桓武平氏の流れを汲む下総国千葉氏の一族で、れっきとした武将である。
東益之の嫡男。左近将監・下野守。号は素伝。美濃国郡上郡篠脇城主。
東氏は父祖の代から歌道の名家として将軍家に近侍していたが、永正12年(1440)の結城合戦に際して父・益之が結城氏朝陣営に加担したとの疑いで周防国に配流されたときには常縁も蟄居したが、のちに許されて将軍家に仕え、本領も安堵された。
享徳の乱において下総国の千葉惣領家が分裂抗争におよび、康正元年(1455)8月に惣領家の千葉胤直・宣胤父子が重臣の馬加康胤・原胤房に討たれると、上杉氏からの要請を受けた幕府の命を受けて東下、下総国東庄に在陣して馬加康胤を攻撃し、康正2年(1456)11月に康胤を討った。
その後も下総国に駐留していたが、応仁の乱最中の応仁2年(1468)9月、歌道を通じた友人でもある美濃国の斎藤妙椿に篠脇城と所領を押領された。
下総国でこれを知った常縁はこれを嘆き、時をほぼ同じくして催された父の追善法会に際して詠んだ和歌が妙椿の耳に届くところとなり、「情けなき振舞をなさんや、常縁歌を詠みて送り給はば所領をもとの如くに返しなん」との妙椿の申し出に10首の和歌を家臣を通じて届けたところ、妙椿からの返し歌と共に所領の返還を約束されたという逸話がある。
応仁3年(=文明元年:1469)2月に下総国を出立して帰国し、5月には美濃国加納城で妙椿と対面して所領を返還されている。
文明3年(1471)、弟子で歌人の宗祇に古今伝授を行い、以後の古今伝授の形式化を生んだ。文明12年(1480)5月には上洛して関白の近衛政家や内大臣の三条公敦、さらには将軍・足利義尚らに『古今和歌集』の要旨を講じ、翌年の秋に帰国している。
明応3年(1494)4月18日に没した。94歳。