斎藤妙椿(さいとう・みょうちん) 1411?〜1480

美濃守護代・斎藤宗円越前入道(俗名を斎藤利明か)の子(二男か)。斎藤利永の弟(一説には利永の子)。入道して持是院従三位法印妙椿と称す。
前半生は詳らかでないが、おそらくは若年時あるいは幼時から善恵寺の僧としての道を歩み、長じて寺内の子院である持是院の院主になったと推察される。歌僧・正徹の『草根集』永享4年(1432)7月10日条に、藤原(斎藤)利永の弟として「妙椿」の名で記されている。
その一方で宝徳2年(1450)に父の宗円が没すると兄の利永が守護代の地位を後継しているが、その利永も長禄4年(1460)に病死すると利永の子の利藤に引き継がれ、妙椿はその後見役として利永・利藤らの居城であった美濃国加納城に入り、持仏堂と居庵を設けて持是院と称した。
その後、経緯は不詳であるが利藤の名は史料から見られなくなり、代わって妙椿が実質的に守護代同然の働きをしており、利藤は加納城を出て墨俣城に移ったようだ。妙椿が台頭して、利藤が追いやられたと見て取れる。
応仁の乱に際しては、美濃守護・土岐成頼に勧めて西軍に属す。自身は在国して美濃国内の東軍方勢力である東氏や、かつて斎藤氏に守護代の地位を奪われた富島氏らと戦った。また、隣国の近江国においても西軍方の六角氏を援けて東軍方の京極氏勢力を駆逐し、伊勢国においても長野氏を支援するなど、中部地域の戦線において常勝を誇って武名は知れ渡った。
そのため、文明5年(1473)に妙椿が兵を率いて上洛するとの風聞が立つと、東軍寄りの立場にあった将軍・足利義政は信濃国の小笠原氏や木曽氏に対し、東美濃に出兵して妙椿の背後を脅かすよう命じるなどしている。また、奈良興福寺の大乗院主・尋尊らが記した『大乗院寺社雑事記』には「東軍・西軍の勝敗は斎藤妙椿の動き次第で決まる」と記されている。
文明9年(1477)11月頃に応仁の乱が終息すると、西軍に奉戴されていた足利義視義稙父子を美濃国に庇護した。
文明10年(1478)12月には尾張国内の抗争にも介入し、幕府の命を受けて入国していた織田敏定を清洲城に攻めて攻落寸前まで圧迫したが、幕府からの停戦命令を受けて翌年1月に撤兵した。敏定が目に矢を受けたというのは、この戦いのときである。
文明11年(1479)2月に家督を養子の斎藤妙純(利国)に譲って隠居し、翌文明12年(1480)2月21日に死去した。法名は開善院権大僧都妙椿。
妙椿が没したとき、壬生晴富はその日記『晴富卿記』に「無双福貴権威之者也」と記しており、尋尊は妙椿が没したので足利義視が困却している旨を日記に書いている。妙椿の人柄や中央政権における立場が窺われる。その反面、大宮長興はその日記『長興宿禰記』に「将軍の弟義視をかついで美濃に据えて、種々乱世の種を播き散らした妙椿が死んだので、世の平和も早く訪れるであろう」と記している。
妙椿は和歌に精通し、妙椿の死後に成った『新撰菟玖波集』にも入句している。また、当時の一流の文化人であった東常縁や一条兼良とも親交があり、文明5年に兼良を美濃国に招いて厚くもてなしている。兼良の紀行文『ふぢ河(藤川)の記』はこのときのものである。