織田敏定(おだ・としさだ) ?〜1495

斯波氏の重臣。清洲織田氏(大和守家)。父は織田大和守久長か。敏定も大和守を称す。通称は五郎。
敏定の活動の初見は、文明8年(1476)11月に尾張守護所の下津(おりづ)に放火したことである。この頃は応仁の乱の余燼で斯波氏も織田氏も分裂抗争を続けており、敏定は東軍の斯波義敏義寛父子に従い、尾張国に下向していた西軍の斯波義廉や織田惣領家(岩倉織田氏:伊勢守家)の織田敏広に敵対しての行動と思われる。
のちに尾張国を離れて京都に向かい、文明10年(1478)8月に幕府より尾張守護代に任じられると9月下旬に再び尾張国に下向。10月には所々の合戦で勝利を収めるが、敏広の岳父である美濃守護代・斎藤妙椿が斯波義廉・織田敏広方に与したため抗争となり、同年12月には清洲城を攻められている。このときの攻防戦で左眼を矢に射られて隻眼になったというが、翌月には妙椿と和議を結ぶに至り、このときの条件によって尾張国のうちで2郡の支配権を得て、尾張国に地歩を築く。
文明13年(1481)10月にはそれまで分裂して争っていた岩倉織田氏の織田寛広(敏広の子)と織田広近(敏広の弟)との連名で足利義政義尚父子ならびに義政夫人の日野富子に礼物を進上している。この頃には惣領家と和睦していたようであり、その実力は惣領家を凌いで尾張国随一となっていたと思われる。
長享元年(1487)9月、尾張守護・斯波義寛に従って織田寛広と共に足利義尚の催した六角高頼討伐(鈎の陣)に出陣し、翌年3月に帰国。延徳3年(1491)の足利義稙による第二次六角攻めにも従軍した。この軍陣で、11月の大津八町町道場の戦いで浦上則宗と協力して六角政綱を討ち取り、翌年3月29日の愛知川の合戦でも安富元家・浦上則宗と共に若槻城を救援する活躍を見せている。
明応4年(1495)、美濃守護の土岐氏の家督問題がこじれて内訌(船田合戦)が起こると、子・寛定の妻の実家である石丸利光を支援して出陣したが、その途次で病死した。
あとを継いだ寛定も9月に戦死し、その弟の六郎(寛村か)が清洲織田氏を継承したと見られる。