美濃守護・土岐氏を支える斎藤氏一族の斎藤妙椿は、応仁の乱において威勢を増大させ、主家の土岐氏を凌ぐほどの勢力を有するに至った。
文明12年(1480)に妙椿が没したのちは、一族内での内紛を経て斎藤妙純(利国)がその権勢を継承したが、その一方で斎藤妙純に従って戦功を挙げた美濃小守護代・石丸利光も着実に勢力を拡張しつつあり、この両者は土岐政房(頼綱)・元頼兄弟による土岐氏の継嗣をめぐる内訌に際して妙純は政房、利光は元頼に与するところとなり、対立が顕著となったのである。
明応3年(1494)12月、石丸利光が密かに襲撃を企てていることを察知した斎藤妙純は居城・加納城の防備を固めて対抗した。両者の緊張は一気に高まったが、政房・元頼兄弟の父である土岐成頼の取り成しによってこのときは和睦したものの禍根は消えず、翌明応4年(1495)には再び緊張が高まり、3月には両勢力がともに正法寺に布陣したことで武力闘争に発展したのである(正法寺の戦い)。
この正法寺の戦いでは斎藤勢が勝利し、敗れた石丸勢は居城の船田城に撤退したが、同年7月の西郡の合戦でも敗れ、元頼を奉じて近江国へと逃れ、六角氏の庇護を求めたのである。
翌明応5年(1496)5月、南近江で兵を集めた石丸利光・利高父子は伊勢国を経て美濃国に侵攻し、土岐成頼・元頼父子を擁立して城田寺を拠点に挙兵した。
対する斎藤妙純は美濃守護・土岐政房を戴いて対抗、近江国の京極高清や越前国の朝倉貞景らによる援軍をも得て勝利し(城田寺の戦い)、敗れた石丸父子・土岐元頼が自刃したことで一連の抗争は5月末に終息した。
これらの抗争を総称して、石丸氏の拠城・船田城に因んで船田合戦と呼ぶ。
この一連の抗争は婚姻政策によって結ばれた近隣諸国の有力武家をも巻き込むこととなったが、逸早く朝倉・京極氏らの援軍を取りつけた斎藤氏が終始優位に展開した。