京極高清(きょうごく・たかきよ) ?〜1538?

京極持清の子。京極勝秀・政経の弟。長兄・勝秀の子で、夭折したとされている孫童子丸を高清の前身とする説もある。
応仁の乱最中の応仁2年(1468)6月に長兄の勝秀が、文明2年(1470)8月には父で京極氏惣領であった持清が相次いで病没したことを受けて次期惣領として勝秀の子・孫童子丸が立てられたが、未だ幼少だったこともあり、持清の二男・京極(黒田)政光と三男・政経の間で家中運営の実権をめぐる内訌が起こった。さらに、この内訌に加えて重臣・多賀氏の内部にも権力闘争が生じ、分裂抗争の集合体ともいうべき応仁の乱に同化して京極家中は混迷を極めることとなる。
高清は政光と結んで政経と対立し、応仁の乱において政経が東軍に属すと高清はこれに対抗して西軍陣営に与し、近江国南部に勢力を扶持していた六角高頼と提携。さらには六角氏を支援する美濃国の斎藤妙椿の介入を招くなど、近江国を舞台として複雑な様相となったが、この戦線で近江国北部に勢力を拡張して地歩を築いた。
文明17年(1485)4月、京極氏の重臣である多賀高忠が侍所所司代に任じられると、高忠と反目していた多賀宗直が京極政経・材宗(経秀)父子と結んで翌年に叛乱を起こしたため、一時は近江国甲賀郡三雲に逃れた。しかし高清は家臣を糾合して宗直を美濃国に逐い、文明19年(=長享元年:1487)5月には美濃国より再起した宗直を国友河原で討ち果たしている。
同年に将軍・足利義尚が六角氏討伐(鈎の陣)を企てると高清も従軍したが、義尚が延徳元年(1489)に陣没すると、陣を解いて諸将と共に所領に帰った。
延徳2年(1490)8月、幕府から惣領に任じられた政経から圧迫されて越前国敦賀、さらには近江国坂本に逃れて没落していたが、明応元年(1492)12月には幕府より惣領職を認められ、明応2年(1493)9月に美濃国の斎藤妙純(利国)の支援を得て復帰した。しかし妙純が明応5年(1496)12月に討死すると、後ろ楯を失って高島郡の海津に逃れた。
明応8年(1499)7月に上坂家信の支援を受けて近江国今浜城に入り、文亀2年(1502)に政経の子・材宗に攻められて内訌が再燃するも、永正2年(1505)に材宗との和解が成立し、上平寺城に拠って領国統一に成功した。
しかし大永3年(1523)に後継者の選定問題で再び内訌が起こり、浅見貞則・浅井亮政ら近江国の国人領主に逐われて尾張国に出奔(今浜城の戦い)。のちに亮政に迎えられて近江国小谷城の京極丸に住み、その保護の下に晩年を送った。
天文7年(1538)1月9日に没したといわれるが、永正14年(1517)2月16日に没したとする説もある。法名は環山寺梅叟宗意。