今浜(いまはま)城の戦い

近江国の北部を領する京極高清は、京極氏の惣領職をめぐって兄の京極政経と対立したが、これに家臣団の権力闘争が絡んだことによって内乱へと拡大し、やがては南近江の六角氏や美濃守護の斎藤氏などの介入を招くことになり、混迷を極めた。
高清は延徳2年(1490)に政経の圧迫を受けて没落したが、明応元年(1492)12月には幕府から京極氏惣領として認められ、明応2年(1493)9月に美濃国の斎藤利国の支援を得て復帰したが、その斎藤利国が明応5年(1496)に家臣・石丸利光や、これと結んだ六角高頼に討たれると、高清は後ろ楯を失って高島郡の海津に逃れたのである。
その後、高清は明応8年(1499)7月に家臣・上坂家信の近江国今浜城に迎えられ、一時は政経の子・材宗との間で内訌が再燃するも、永正2年(1505)には家信の尽力によって和解が成立し、その地位の安定を見たのである。しかし大永元年(1521)に家信が没し、そのあとを子の上坂信光が継ぐと、信光は高清を傀儡として京極家中の実権を握り、専横を揮ったとされる。このため、北近江の国人領主らは上坂氏、ひいては京極氏に反感を募らせていった。

そのような折に、高清の後継者の選定が問題になった。高清は信光の意向もあって二男の高吉(高慶・高桂)を推していたが、これに反発した浅井亮政・三田村忠政・堀元積・今井越前ら北近江の国人領主らは、談合して近江国尾上(小野江)城主・浅見貞則を盟主として反上坂信光の一揆を結成し、大永3年(1523)3月9日に尾上城に籠もったのである。
この談合は浅井郡草野郷の大吉寺塔頭の梅本坊で行われたことが『江北記』に「大吉寺の梅本坊の公事」として記されており、このときに高清長男の高峰(別称を高延・高広)を擁立することも取り決められたものと思われる。
この動きを察知した信光は軍兵を今浜城に集め、尾上城にほど近い安養寺を拠点として軍勢を配したが、尾上城から迎撃に出陣した浅見・浅井らの一揆勢に撃ち破られた。敗れた上坂勢は今浜城へ逃げ戻ったが、一揆勢はこれを追撃して今浜城に猛攻撃をかけ、そのまま今浜城をも攻め落としたのである。
辛うじて今浜城から脱出した信光は刈安尾城に逃れたが、ここも一揆勢に攻められ、高清の上平寺城も一揆勢の焼き討ちを受け、高清・高吉父子と上坂信光は尾張国へと落ち延びていった。
一揆勢は刈安尾城に留まっていた京極高峰を奉じて神照寺に入り、ついで尾上城に迎えたのである。

この抗争によって高峰が京極氏惣領、浅見貞則がその執権となるが、貞則もまた専横の振る舞いが強くなって国人領主らの反感を買うこととなり、大永5年(1525)5月に京極高清や上坂信光と和を結んでこれを擁立した浅井亮政によって追い落されるのである。