浅井亮政(あさい・すけまさ) ?〜1542

近江国小谷城主。通称は新三郎。備前守。
出自は近江国浅井郡丁野(よおの)郷を本拠とする国人領主・浅井氏の庶流で、浅井直種の子。
浅井氏惣領・浅井直政に男児がなかったため、その娘婿となって浅井氏の惣領を継いだ。
大永3年(1523)3月、近江国の国人領主らが属す近江守護・京極高清の後嗣をめぐる内訌(梅本坊の公事)が起こった際、亮政は三田村・今井・堀氏らと連合して高清の長子である高峰(別称を高延・高広)を擁立する京極氏重臣・浅見貞則に与し、高清の二男・高吉を望む高清とその重臣・上坂信光らと対立した。
この対立は軍事闘争にまで及んだが、守護方の軍勢を破って京極高清・高吉(高慶)父子を尾張国に逐った(今浜城の戦い)。
しかしこの後、この連合の盟主であった浅見貞則が京極高峰を傀儡として専横を揮ったため、今度は上坂信光と和解するとともに浅見氏に反感を持つ領主らを糾合し、大永5年(1525)頃に小谷城を築くとここに京極高清を迎えて擁立し、自立への足がかりを築いた。小谷城の京極丸と呼ばれる郭は、この高清のために設けられた区画だったとされる。
この亮政の動きは近江国南半を領する六角定頼との緊張を招くこととなり、同年5月より小谷城を攻められると城を捨てて美濃国に逃れる(小谷城の戦い)も、翌年7月頃までには高清と共に復帰しており、天文3年(1534)には京極氏の執権ともいうべき地位に在って北近江統治の主導権を掌握した。
その反面で六角氏との緊張も続いており、享禄4年(1531)4月の箕浦の合戦や天文7年(1538)9月の国友河原の合戦などで敗北を喫し、この敗戦以後は六角氏に従属しつつも、越前国の朝倉氏との友好関係や本願寺勢力との宥和政策によって勢力を維持し続けた。
高清の没後は家督を継承した高峰を擁立したが、亮政の伸張ぶりを警戒した高峰と不和になり、天文10年(1541)4月に至って決裂している。
天文11年(1542)1月6日、小谷城で没した。