南近江守護・六角高頼の二男。四郎と称す。従四位下・弾正忠。江雲と号す。近江国蒲生郡観音寺城主。
明応8年(1499)に京都相国寺に入り、永正元年(1504)4月には寺内の慈照院にて断髪。しかしその後に兄・六角氏綱が負傷して国主の任に支障をきたしたため、永正13年(1516)の伊庭貞説の叛乱に際して帰国し、氏綱を補佐した。
氏綱が永正15年(1518)に没すると還俗し、家督を継いだ。
永正17年(1520)、細川澄元に敗れて近江国に逃れてきた細川高国を支援し、大永2年(1522)には大兵を率いて上洛、足利義晴を推戴する高国政権の樹立に貢献した。
大永5年(1525)、台頭著しい近江国浅井郡小谷城主・浅井亮政を攻めている。
大永7年(1527)、桂川の合戦に敗れて近江国に逃れてきた高国を保護する。高国はのちに帰洛するが、翌享禄元年(1528)に再び細川晴元らに敗れて再び逃れてくると、義晴を匿う一方で高国を援けて派兵し、晴元と争うことになった。
天王寺の合戦での高国の敗死後も定頼は義晴の庇護を続け、観音寺城下の桑実寺に住まわせている。義晴は晴元と和して天文3年(1534)に帰洛を果たし、そののちも政情が不安定になると近江国に避難してくることになるが、その度に保護している。
天文元年(1532)には法華衆徒と共に山科本願寺を攻め(天文法華一揆)、それ以来は(本願寺)証如とは敵対関係にあったが、天文5年(1536)には和議を結び、翌天正6年(1537)には長女を晴元に嫁がせて細川氏との関係を修復するなどの優れた外交手腕も見せ、それに加えて義晴の寵を受けたことなどもあり、しだいに幕府の柱石として重きをなした。
それらの功績を認められ、天文15年(1546)には管領職に準じる「管領代」の待遇を受け、従四位下に叙せられた。この年の義晴嫡男・足利義輝の元服に際しては加冠役を勤めている。さらには年来の宿敵同士であった比叡山延暦寺と法華衆徒の調停に成功し、その存在に重みを加えた。
天文21年(1552)1月2日に病没した。法名は雲光寺殿光室亀公大居士。