(本願寺)証如(ほんがんじ・しょうにょ) 1516〜1554

真宗本願寺派の僧。本願寺第10世法主。永正13年(1516)11月20日に生まれる。幼名は光仙・光養。諱は光教。権僧正。
第9世法主である実如の孫(実如の二男・円如の二男)。母は、実如の弟で近江国大津顕証寺や伊勢国長島願証寺を開いた蓮淳の娘・慶寿院。妻は庭田重親の女・顕能。
大永5年(1525)、実如の死によって10歳で法主となり、母・慶寿院や外祖父・蓮淳の強力な後見を得て、加賀一向一揆の内紛や各地の門徒と領主との抗争などに対処した。
大永7年(1527)、前関白・九条尚経の猶子となる。これが本願寺摂家猶子の最初となった。
本願寺では先代・実如の頃より武家の抗争に関わらないことを訓示としていたが、証如はこの教えを破り、享禄5年(=天文元年:1532)6月に細川晴元の要請を受けて摂津・和泉・河内国の門徒を一向一揆として動員させ、晴元に抗う河内北半国守護・畠山義堯三好元長を討たせた(飯盛城の戦い顕本寺の戦い)。
しかし、この勝利によって力量を自覚した門徒らの暴走を抑えることができず、同年8月には門徒らの爆発力に危機感を持った京都の日蓮宗(法華宗)や晴元の意向を受けた近江国の六角定頼のために総本山である山科本願寺を焼かれたため(天文法華一揆)、摂津国の石山道場を新たに総本山とした。これが石山本願寺となる。
その後、細川晴元をはじめ畿内の有力領主と友好を結び、天文10年(1541)には宿敵ともいえる越前国の朝倉孝景とも和睦した。これらの外交策と蓮淳・実円・顕誓らの一族や下間頼慶・下間光頼ら、家臣ともいうべき坊官の補佐によって本願寺は発展を続け、天文18年(1549)には権僧正の勅許を受けた。
また布教の政策としては、父・円如が蓮如の書状を集めた遺志を継いで、これを出版して諸方の末寺・門徒に配ったことが知られている。
天文23年(1554)8月13日に病死した。享年39。墓所は京都市東山区山科。諡は受信院。