三好元長(みよし・もとなが) 1501〜1532

山城国下5郡の守護代。細川氏阿波守護家の有力被官・三好之長の孫。三好長秀の子。三好康長の兄。名を長基とも。弾正少弼・筑前守。
永正6年(1509)に父・長秀を失い、永正17年(1520)、祖父・之長の死後に家督を相続。
大永6年(1526)10月、丹波国の波多野稙通・柳本賢治兄弟が管領・細川高国と不和になると波多野勢に与し、12月には一族の三好勝長・政長率いる軍勢を摂津国に派遣し、高国を圧迫した。
翌大永7年(1527)2月の桂川の合戦に敗れた高国が将軍・足利義晴とともに近江国に逃れると、細川晴元足利義維を推戴して和泉国の堺に入り、3月に堺に暫定新政権(いわゆる堺幕府)を樹立した。この頃の幕府権力は管領に集中していたが、管領の地位に推した晴元がまだ幼少であるため元長が後見しており、実質的に元長が堺幕府の実権を握ったのである。
しかしその後に柳本賢治と対立するようになり、大永8年(=享禄元年:1528)1月には賢治の讒言を信じた晴元とも不和になる。同年7月には山城国下5郡(愛宕・葛野・宇治・紀伊・乙訓)の守護代となって京都を支配するが、賢治との対立はさらに激化し、享禄2年(1529)8月に堺幕府を離脱して三好氏の本貫地である阿波国に帰国した。
しかし享禄4年(1531)2月、細川高国の反撃にあった晴元に援けを求められて堺に入り、6月に摂津国で高国を敗死させた(天王寺の合戦:別称を大物崩れ)。これにより堺幕府に復帰したが、元長の不在時に威勢を増大させていた木沢長政と対立するようになり、長政に肩入れする晴元とも不和になった。
この頃木沢長政は主君である畠山義堯と争っており、元長は義堯に与して河内国飯盛城に籠もる長政を攻めていたが、形勢不利となった長政が晴元を介して山科本願寺の一向一揆の支援を受けて逆襲に転じると全軍総崩れとなり(飯盛城の戦い)、享禄5年(=天文元年:1532)6月20日、その余勢に圧されて堺の顕本寺に敗死した(顕本寺の戦い)。享年32。法名は南宗寺海雲。