天王寺(てんのうじ)の合戦(大物(だいもつ)崩れ)

室町幕府第10代将軍足利義稙・12代将軍足利義晴のもとで管領として幕府政治の実権を握っていた細川高国だったが、大永6年(1526)に丹波国の波多野稙通・柳本賢治兄弟が叛旗を翻したことによって反高国戦線が蜂起するとたちまちのうちに劣勢となり、大永7年(1527)2月の桂川の合戦にて敗北し、近江国に逃れた。
高国が将軍を奉じて近江国に奔ると評定衆や奉行衆の吏僚も逃散したため、室町幕府の機能は停止した。これを好機とした三好元長足利義維細川晴元を推戴して阿波国から和泉国堺に入り、ここに暫定新政権(いわゆる堺幕府)を樹立させたのである。
敗れてなお京都奪還を目論む高国は、堺幕府の内訌に付け入って軍事の要であった三好元長を失脚させて堺幕府の弱体化を謀ったのち、備前国に出向いて備前守護代・浦上村宗の支援を取り付けると、享禄3年(1530)より備前国から畿内へ向けて侵攻を開始した。
同年6月に播磨国三木にて柳本賢治を謀殺した高国方は9月に摂津国西部の富松城、11月に大物城、翌享禄4年(1531)2月末には伊丹城を攻略して摂津国の大半を制圧、摂津・和泉国境に位置する堺を圧迫したのである。
戦況不利となった堺幕府方は、阿波国に帰国していた三好元長に「望みをことごとく叶える」として復帰を要請、これを受諾した元長は軍勢を率いて出立し、2月21日に堺に到着した。

3月10日、迎撃態勢を布いた堺幕府方は、摂津国住吉郡の勝間に布陣した浦上勢と戦って前線を木津・今宮・天王寺の辺りまで押し戻す。25日には阿波国主・細川持隆からの援兵8千も合流し、その兵力は1万5千ほどとなった。これに対し、総勢2万ともいわれる軍勢を擁していた高国・村宗方は、高国が淀川(旧淀川)付近の浦江、村宗が野田・福島を本陣として堺幕府方に対峙したのである。
先の勝間での合戦以後、双方ともに相手の出方を窺って守勢に入っていたために戦線が膠着していたが、閏5月中旬になって戦況が動いた。仕掛けたのは三好元長である。
元長は持隆の援兵に堺の防衛と後詰を任せ、自らは7千の手勢を率いて閏5月13日より進軍を開始し、小勢を繰り出しながら徐々に北上して阿倍野に迫った。一方の高国勢の主力部隊もしだいに南下し、両軍は四天王寺を挟んで対峙した。
そして6月4日、7千の元長勢は2万の高国・村宗連合軍に総攻撃をかけた。このとき、高国・村宗連合軍中に在って神呪寺で後詰をしていた赤松晴政(当時の名乗りは政村)が裏切って堺幕府方に加わり、後方を撹乱したのである。晴政は父・赤松義村を浦上村宗に殺されており、これを恨んでいた政村はかねてより堺幕府に人質を出して内応を約束していたのであった。
この突然の挟撃によって全軍総崩れとなった高国・村宗勢は8千の兵を失う大敗北を負った。犠牲者のほとんどが野里川(中津川)での溺死だったというから、その混乱のほどが窺える。
この戦いで村宗や和泉守護・細川澄賢をはじめとする高国方の主だった武将が相次いで戦死し、高国のみが尼崎方面へと向かって敗走した。
はじめ高国は大物城に入ろうとしたが、既に堺幕府方の手が伸びていたため入城できず、やむなく街中の染物屋の甕に隠れたという。一方、高国の探索にあたっていた元長勢はなかなか高国を見つけることができなかったため一計を講じ、近所の子供らに瓜を見せて「落人を教えれば瓜をやるぞ」と尋ね、潜んでいた高国を発見したという。
捕えられた高国は6月8日、大物の広徳寺で自刃させられた。
この合戦を『大物崩れ』ともいう。