細川持隆(ほそかわ・もちたか) ?〜1553

細川氏阿波守護家・細川之持の子。通称は彦九郎。名を持重とも。讃岐守。阿波国勝瑞城主。
永正4年(1507)に顕著となった細川氏惣領の京兆家(管領家)の家督をめぐる抗争には、父・之持の兄で、細川高国と決裂した細川澄元を、永正17年(1520)に澄元が没したのちはその子・細川晴元の2代に亘って支援した。この晴元は大永7年(1527)3月に足利義維を将軍に擬して和泉国堺に暫定政権(堺幕府)発足させている。
享禄4年(1531)3月には晴元・三好元長主従を支援するため阿波国より出陣し、同年6月の天王寺の合戦(大物崩れ)における晴元方の勝利に寄与した。しかしこの直後より堺幕府内で内訌が生じ、翌享禄5年(=天文元年:1532)3月には晴元と決裂し、阿波に帰国した。この後、晴元が堺幕府を解体して将軍・足利義晴を擁立する方向に転換すると、阿波国に逃れてきた義維を那賀郡平島荘に庇護した。
天文2年(1533)2月(一説には永正9年:1512)、父の之持が没したため、阿波守護家の家督を継承する。またこの頃、晴元は畿内で本願寺の主導による一向一揆の攻勢に圧迫されていたが、三好長慶を派遣して晴元と本願寺を和睦させて窮地から救った。
天文8年(1539)10月、領国を尼子晴久の軍勢に侵略された播磨守護で妹婿の赤松晴政(政村)の要請を受けて備中国に出陣したが、その鋭鋒を止めることはできなかった。
一方、本願寺と和睦したのちの晴元は細川高国の後継者と称する細川氏綱と抗争していたが、持隆はこれにおいても晴元方に立ち、天文15年(1546)10月には支援のため自らも軍勢を率いて畿内に出陣し、晴元方が戦況を押し返すのを見届けたうえで天文17年(1548)頃に帰国したようである。
しかし天文22年(1553)6月17日、長慶の弟・三好義賢(実休)の命を受けた軍勢に攻められ、阿波国勝瑞城下の見性寺にて自害させられた。義賢が持隆を討つに至った事情は不詳であるが、阿波国に庇護していた足利義維(あるいはその子の義栄)を将軍位に就けるかどうかで三好兄弟と対立したとする説、あるいは持隆側室の小少将という女性が義賢と深い仲になり、この痴情のもつれからとする説などがある。また、没日についても『史料綜覧』等では先述の月日であるが『細川両家記』『足利季世記』では6月9日とし、戦記類などでは天文21年(1552)8月19日とされ、判然としない。
持隆の死後、阿波守護家の当主には持隆の子・真之が義賢らによって擁立されたが、実権を持たない傀儡でしかなく、実質的に細川阿波守護家は没落した。