細川之持(ほそかわ・ゆきもち) 1486?~1533?

細川氏阿波守護家・細川義春の嫡男。細川澄元の兄。讃岐守。法名は最勝院。
『蔭涼軒日録』延徳3年(1491)6月5日条の文中に「彼御息六歳」とあり、「彼」は讃州屋形、つまりは細川義春を指し、その「御息六歳」が之持のことと思われる。義春のもう一人の子・澄元は延徳元年(1489)生まれであるため、澄元の兄であることがわかる。
明応3年(1494)12月に阿波守護家の当主であった父を亡くしたが、存命していた祖父の細川成之が家政を執行したとみられ、之持の事績は見受けられない。その成之が永正8年(1511)9月に没すると名実ともに之持が当主となり、時期は不詳ながらも阿波守護職に就いた。また、この年には備中守護も兼帯していたことが確実であるが、この職への就任は文亀2年(1502)にまでさかのぼる可能性がある。
弟の澄元は細川氏京兆家(管領家)の当主・細川政元の養子となり、同じく養子となっていた細川澄之細川高国と政元の跡目をめぐって争ったが、永正17年(1520)に高国に敗れて阿波国に逃れてくると之持はこれを庇護し、同年の澄元没後は遺児の細川晴元を支援。晴元は大永7年(1527)2月に高国を逐って暫定的な新政権(いわゆる堺幕府)を興したが、高国方の反撃は続き、享禄4年(1531)2月には晴元支援のために三好元長を派遣するとともに同年3月25日には自らも8千の軍勢を率いて阿波国から和泉国堺に出陣し、6月の天王寺の合戦の勝利に寄与した。
しかしその後の堺幕府内の内訌のために晴元と不和になり、享禄5年(=天文元年:1532)3月に帰国し、翌天文2年(1533)2月23日に死去した。
没年には永正9年(1512)説もあり、『尊卑分脉』系図などでは永正9年1月21日に卒したとされているが、享禄4年の事績などから没年は天文2年であろう。