細川澄之(ほそかわ・すみゆき) 1489〜1507

公卿・九条政基の二男であるが、管領・細川政元の養子となる。幼名は聡明丸。通称は九郎。
永正元年(1504)に元服し、11代将軍・足利義澄より一字を与えられて澄之と名乗った。
永正3年(1506)4月に丹波守護となり、政元の命を受けて細川政賢とともに丹後国に出陣、丹後守護・一色義有と戦った。翌永正4年(1507)4月には政元とともに再度進発し、5月には帰京したが、まもなく再び出陣している。
義父である政元は男児がなかったため澄之を養子にしたが、政元は文亀3年(1503)に阿波守護・細川義春の子である澄元をも養子に迎えたために澄之と澄元、また澄之家臣と澄元家臣の間で次期家督の地位をめぐって反目が生じることになった。澄之は永正4年6月23日、機先を制して被官の香西元長薬師寺長忠らに政元を暗殺させ、その翌日には澄元を襲撃して近江国に逐い、7月8日に将軍・義澄より細川京兆家(管領家)の家督と摂津・丹波・讃岐・土佐守護職の継承を安堵された。
しかし、澄之に反発する細川高国・細川政賢など多くの者が澄元を擁立して挙兵。7月末に薬師寺長忠の摂津国茨木城、香西元長の山城国嵐山城といった拠点を落とされ、8月1日には宿所としていた上京の遊初軒を高国らに攻められ、香西・薬師寺らとともに戦死した(遊初軒の戦い)。享年19。