薬師寺長忠(やくしじ・ながただ) ?〜1507

細川京兆家(管領家)の被官。通称は与次・三郎左衛門尉。摂津守護代・薬師寺元一の弟。
幕府管領で摂津守護でもある細川政元に属し、摂津半国の守護代として兄・元一を援けた。
兄の元一は永正元年(1504)9月、細川政元に叛いて摂津国の淀藤岡城に拠って挙兵したが(淀藤岡城の戦い)、長忠はこれには加わらずに政元方として元一を攻め、鎮圧後にはその功によって摂津全域の守護代に任じられた。
永正4年(1507)6月23日、香西元長とともに細川政元を廃してその養子・細川澄之を細川京兆家の家督に就けようと画策し、刺客を送って政元を暗殺した。元長とおそらくは長忠も澄之付の被官として遇されていたようであり、澄之のもとで京兆家の家政、ゆくゆくは幕政の実権を握ろうとしたのだろう。
その翌日には政元の他の養子・細川澄元やその家臣の三好之長を京都から近江国へと追い落とし、7月8日には目論見どおりに澄之が幕府将軍・足利義澄から細川京兆家の家督として認められたが、28日には澄元に味方した細川高国によって糾合された反澄之勢力によって摂津守護所の茨木城を攻め落とされ、8月1日には澄之を守って上京の遊初軒で高国らの軍勢と戦ったが、澄之や香西元長らとともに討死した(遊初軒の戦い)。